1905_時々刻々と主と共に生きる | 日々の霊的生活がすべての土台

必死で聖書を読む

僕は若かりし頃、このような信仰態度で奉仕をしていました。それは、聖書の話や賛美の奉仕がある前日や少し前から主の前に出て主からの語りかけを待つとうスタイルです。普段ほとんど聖書を読めていないので、必死で聖書を読んで主からの語りかけを待つというような者でした。

今から思えば幼子の信仰であったと思います。しかし、主はあまりにも優しすく憐れみ深いお方で、僕のそのような態度でさえも受け入れてくださっていました。

時々刻々と主と共に生きる

それから、少しずつ日曜日だけ熱心になる信仰から脱却して、平日、時々刻々と主と共に生きるクリスチャンになることを目標に掲げました。それを掲げてからもう7年ほどになります。何度も失敗し、何度も主を悲しませてきました。まだまだその途上にあります。ただ、主の恵みと憐れみと導きのゆえに、祈りと御言の恵みに味わうことを教え続けてくださっています。

感情の浮き沈みは減り、激昂することは減り、自分の意志と押し通したり、自己中心的な考えや行いも少しずつ減ってきていると思っています。これはただ主の恵みと憐れみによるものです。

御言をもって語ってくださる

その中で思うことがありました。それは僕が語ることができるのは、僕が霊的に黙想し味わい、主に教えられ、戒められて、血肉とした御言だけだということです。

祈りの中で主は聖書の御言をもって語ってくださることがあります。なぜなら、聖書の言葉そのものが神様だからです。もし、霊的な生活、祈りや聖書を読むことをしていなければ主は語ろうと思っても語ることができないでしょう。

だから、CSなどでテキストが与えられており説教箇所が決まっていて、自分がその御言を自分のものにできていない場合、僕は語る資格がないと悔い改めることしかできません。

語り実行する者として

覚えた御言が聖霊によってアクティベートされ活性化するのです。プログラミング的に言えば、クラスがnewされて実態をもつインスタンスになるのです。僕はまだまだ聖書の言を黙想できていません。まだまだ味わうことができていません。まだまだ覚えることができていません。

これから、もっと主の御言に親しみ、祈り主と個人的に交わり、主が語りたいと思われていることを語り、主がされたいことを実行できる者になりたいと思わされています。

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