御霊で始めたのに
クリスチャン信仰は主に導かれる以外に進むすべがありません。自分であれこれ考えて自分の力でやろうとしても失敗するだけです。それは聖書にあるように霊ではじめたのに肉で仕上げようとしていることです。
ガラテヤ人への手紙 3:3
あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。
こう書くことができるのは、僕の信仰生活がまさにその両方の道をたどってきたからです。主に導かれている時と自分でやろうとしている時とでは自分の霊的状態、考えていること、行いは全く違いました。
退化か?停滞か?
その過程で葛藤があります。それは現状のままでいいと思いたくなる日常の引力との葛藤です。さらに時に心配になることもあります。それは、自分は果たしてクリスチャンとして成長しているのか?という疑問です。自分の歩みは荒野で40年間彷徨った心の頑ななイスラエルの民と同じなのではないかという不安です。
僕は以前、クリスチャンの成長度を定性的、定量的に計れるようにしたら、現状の今の姿を知性で知ることができ何をすべきかがわかるようになるのに、というようなことを書いたことがあります。
霊的成長の本丸
霊的に成長するとはどういうことでしょうか?霊的とはギリシャ語でロギコスであり、御言に属するという意味があります。つまり、祈りも御言も霊的なものです。そして、いずれも知性と霊性の両側面があり、両方において実を結ぶことが霊的な成長であると言えます。そして、その結果、キリストの似姿になるということだと思っています。
僕はペンテコステ派出身なので、霊的成長の本丸は深い祈りの中で聖なる主と交わり、主の聖さに触れることによって自分の真の姿を霊の領域において深く悟り悔いて改めるところにあると思っていました。もちろん、これは間違いではないでしょう。
しかし、人生が変わるほどの臨在を主が現わされて自分が変わる状況は非常に特別な時だと思います。それは、モーセ、イザヤ、ヤコブなどの人生を見ればわかります。人生の節目、重要な時に主は彼らに特別な臨在を現わされました。
知性において実を結ぶ
つまり、主との深い臨在の中で一気に自分が変わるというワンチャンを求めてはいけないということです。なぜなら、もしこういった神秘体験のみで人が変われるなら、聖書を読む必要がなくなってしまいます。
実際は、人の務めとして聖書の御言を読み暗唱し、心の中に刻み込み、血肉とし、その御言によって行動が抑制され、制御され、ついにはそれを実行できるようになるという側面こそが重要です。これも聖霊の働きであり、同じように霊的なものです。
成長のイメージ図
そして、これらの動機は神への愛だけです。その愛を動機として霊的側面と知性においての成長を知ることが出来る一つのイメージ図が、先日も紹介したアビラのテレサ著の「霊魂の城」だと思わされています。
僕は早速この「霊魂の城」のイメージ図をプリントアウトして自分の部屋に貼っています。僕は今どの部屋にいるのかをはっきりと教えてくれるからです。













