1883_豚は洗われても、またどろの中にころがって行く | そうならないための方法

最後に悔い改めたら万事オッケー!

昨日は自身の経験から「最後に悔い改めたら万事オッケー!」というような信仰姿勢では真にへりくだって悔い改めることはできないということを書きました。それは、悔いることはできても「改める」ことができないからです。「最後に悔い改めたら万事オッケー!」という言葉の背後には、また元の生活に戻っていく自己中心的な考えが現れています。

しかし、もし、へりだり悔い改めるものにはこの聖書の言葉が実現します。

ヨハネの第一の手紙 1:9
もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

豚は洗われても

しかし、人間はそう簡単には変わりません。少なくとも僕はそうでした。また同じ場所に戻っていくのです。

ペテロの第二の手紙 2:22
ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

じゃあ、どうすればいいのでしょうか?それには一つヒントがあると思っています。

払われた犠牲

主の赦しは簡単に得られるように思えるかもしれません。確かに真にへりくだり、悔い改めるなら赦されるからです。もしかしたら、赦され上手な人もいるかもしれません。言葉は悪いですが、確かに赦されることは易しいことなのです。それは主の愛と恵みと憐れみのゆえです。

しかし、その赦しのために払われた犠牲は考えられないほど途方のないものでした。イエス様が受けた暴力、虐待、裁き、裏切り、絶望、苦痛、そして、天の父からも見捨てられる霊における究極の苦しみ。

ころがって行かないよう

僕が再びどろの中にころがって行かないように気をつけていることはこれです。まず、サタンの策略にのらないこと。サタンの策略に乗ってしまうと十字架に行く事すらできなくなります。どれだけ厚かましくても主の十字架には赦しの力があることを信じることです。

そして、心から悔い、へりくだって主のもとへ行きます。イエス様の十字架による宣言をいくつかします。その具体的な宣言文に関しては「イエスの十字架を宣言する祈り」と言う書籍に書かれています。

もう罪を犯さないように

そして、主の赦しを受け取ったあとに、この与えられた赦しの背後にはどれほどのイエス様の犠牲があったのか?そして、それは何のためであったのか?その動機はなんだったのか?を心静めて黙想します。そうすると、それは僕を愛してくださっていたから、ということがわかります。主は深い愛をもっておっしゃってくださいます。。「もう罪を犯さないように。」

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