自己啓発で変わること
昨日は「主にあって変えられる」と言うことについて書きました。聖書を基準として現状の自分とあるべき姿のギャップを見た時に絶望、しかし、それが絶望におわることなく、霊なる主の働きによって変えられる恵みがあるということを書きました。
僕はある時期まで自己啓発で変わることと主にあって変えられることをごっちゃにしていた時期がありました。つまり、自己啓発的な手法によって変えられることに重きを置いてしまっていたのです。
愛や感謝を動機
僕は自己啓発的な考え方に頼ることはしたくありません。しかし、自己啓発的な手法が悪いとも思いません。なぜなら、過去の聖人と言われる人や修道院生活をしていたクリスチャンを見ると、みな、非常にストイックな生き方をしていたからです。
最大の違いはただ単に禁欲的に生きるのか?それとも、主への溢れるばかりの愛や感謝を動機としてそうしているのか?の違いです。後者は自己が中心にあり、自分がそう努力していることに重点が置かれます。しかし、後者は主を中心として、喜びに重点が置かれるのです。
人によってとられ方が違う
つまり、主への溢れるばかりの愛や感謝の動機が最も重要なのです。しかし、これほど人によってとられ方が違うものはないと思います。ある人は喜々としてそのようにします。しかし、僕のようなすぐに自己啓発的になる者にとっては主への溢れるばかりの愛や感謝を動機とすることはどういうことなのか?わからなくなってしまうのです。
僕は主に救われた時に何の苦痛もなく喜びから何時間も祈ることをしていました。そして紆余曲折ありながらも、主の前に出て祈ることは僕にとって苦痛ではなく喜びだったのです。しかし、僕が今受けているチャレンジの中ではなかなかそれができないと感じています。
深い交わりの深み
確かに主の前に出て祈ります。主の愛をしります。救われた喜びが心にあります。主の御言の力を知ります。主の臨在を感じます。主からの語りかけを聞くこともあります。しかし、僕はまだ主との深い交わりの深みへと入れていないと感じています。それはなぜでしょうか。それは僕の生き方がそのようじゃないからです。
僕はあまりにも見るもの、聞くものに影響を受けてしまいます。主の深い愛に根差した反応ができないでいるのです。もしかしたらある人は「クリスチャンってそんなもんだよ。結局人間だもの」というかもしれません。。
主には絶対にできる
しかし、主に変えられるという望みを抱いている以上、僕はそのような人間に変えられたいと思っています。そして、実際に信仰の先輩などはその域にいる人たちも実際にいます。なぜなら、僕にはできないけれど、主には絶対にできると信じているからです。













