僕の神観
昨日は、自分が父になったことで、天の父の思いに思いを馳せることが多くなったということを書きました。
それまでは、ほとんど福音書に書かれているイエス様が僕の神観を形成しており、実生活では聖霊によって生きるという信仰だったのです。
そのような神観をもっていた最大の理由は僕自身が父の子供であったという点です。僕は三人兄弟の末っ子長男で、大変父に甘やかされて育てられました。ですので、天の父と親密な関係を持っているイエス様やダビデの天の父のもとで安らぐ信仰感が強かったのです。
詩篇 4:8
わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。
あしたはよるかえってくる?
しかし、次は別の目線でイエス様に思いを馳せるようになりました。それは自分の子供からの視点です。自分の子供の僕に対する思いからイエス様がどのように思っておられたのかを思うようになったのです。
僕は週に3回出社していますが、子供は僕がいつ在宅で仕事をするかを毎日確認してきます。「あしたはおうち?」「あしたはよるかえってくる?」「あしたはおやすみ?」僕は子供と会話する度に、彼から強い愛を感じます。それは一緒にいたいという強い思いです。それが子の父に対する思いのうちの一つなのです。
どうしてわたしをお見捨てになったのですか
イエス様は生まれてこのかたずっと天の父とずっと共に歩んでこられました。しかし、イエス様は天の父の愛から引き離されなければなりませんでした。たとえて言えば、イエス様の「あしたはよるかえってくる?」という問いに対して、天の父は「もう帰ってこない」と回答しないといけなかったのです。イエス様は天の父と完全に断絶される苦しみにあわなければなりませんでした。
僕はこの受難週に天の父から見捨てられたイエス様の天の父に対する思いに思いを馳せます。
マタイによる福音書 27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
魂の苦しみにより光を見て満足する
イエス様がその苦しみを受け入れたのは僕を愛するが故です。
イザヤ書 53:11
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
この受難週、僕は唯一の神である天の父とイエス様を褒め称えます。













