1833_栄光は主のもの、恥は我がもの | 肉の自分は全くそう思っていない

あるべき姿

聖書の言葉にこのような言葉があるのか知りませんが、キリスト教会にはこのような言葉があります。

「栄光は主のもの、恥は我がもの」

僕はこの言葉を聞くと、バプテスマのヨハネの言葉を思いだします。それはこれです。

ヨハネによる福音書 3:30
彼は必ず栄え、わたしは衰える。

僕はできているかできていないかは別にして、霊的にこのような者でありたいとずっと願って生きてきました。奉仕をする前には必ずこの御言を宣言するようにしています。

主の恥に恥を加える

しかし、僕の中にはそれとは全く別の思いがあることも知っています。それはなんと「栄光は我がもの、恥は主のもの」なのです。誰も主の栄光を横取りしないだろうと思っていても、自分の深いところを探られる時に「人によくみられたい」とか「信仰があるように思われたい」とかそういった思いが隠れているのを自分に見出すのです。

主は既に十字架の上で恥を背負われました。僕はさらに主の恥に恥を加えようとするのです。僕は奉仕において、人からの称賛を得たりしようとする弱さがあることを知っています。

唯一難しいこと

しかし、祈りの中でそういった自分に醜さを見せつけられるこは実は幸いなことです。なぜなら、悔い改めることができるからです。悔い改めるべきことがわかればあとは簡単です。悔い改めれば主は聖めてくださるのです。僕は「あぁ自分はなんてだめなんだ」と思うことが少なくありません。

しかし、その時にすべきことはたった一つです。主に向き合って悔い改めるということです。もし、自分はだめだで終わってしまったら主の恵みに与ることはできません。唯一難しいことがあるとすれば、それは主の前に悔い改める時に確かに主は受け入れてくださるということを信じる信仰があるかどうかです。

成熟したクリスチャンとは

主の前に悔い改める時、こんな者をも受け入れてくださる主の愛を知ることができます。その時に僕は心の底からこう思います。

「栄光は主のもの、恥は我がもの」

ヨハネによる福音書 3:30
彼は必ず栄え、わたしは衰える。

僕は未だにどのような状態で主の前に立つのが正しいのかがわかりません。成熟したクリスチャンがどのような人なのかわかっていません。ただ僕は情けないことに、クリスチャンになって何年経っても僕は悔い改め続けています。

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