1789_自分の力ですべてを捧げるのは不可能

肉が葛藤

クリスチャン生活を送っていて思うことがあります。それは当たり前のことですが、宣言するのは簡単ですが行うのは難しいということです。何にもない時に日々の祈りや賛美の中で「あなたにすべてをお捧げします」と心を込めて宣言するのは簡単ですが、いざ、捧げないといけない状況になると肉が葛藤し始めます。

こんなことを書くと怒られそうですが書きます。礼拝に関してコミットすれば魂が恵まれます。CSの説教の準備なども恵まれます。どれだけ肉体が疲れていても、祈り、御言に触れ、賛美をすれば霊が恵まれるからです。しかし、教会の各種業務や会議に忙殺されると、本当に心が渇いてカスカスになっていくのを感じています。これは僕の信仰態度に問題があることは明らかです。

心がカラカラになっていく

先日の日曜日は夕方5時まで教会で会議、火曜日の祝日も外部の教会で朝から夕方まで会議、今週の土曜日は資料作成で朝から夕方まで奉仕です。仕事をする中で家族との時間も個人的な休みもないとなると本当に心がカラカラになっていくのを感じたのです。

僕はその瞬間に「あなたにすべてをお捧げします」という宣言は口だけであったと気づかされたのです。霊的な奉仕には自分の時間は捧げるけれど、それ以外の教会の奉仕にはある程度までしか捧げたくないと思っていたことに気づかされたのです。

主の前に負けを認める

ですから、こういう時こそ個人的に時間を確保して祈り、賛美し、御言によって自分の霊を恵まれさせる必要があります。そうしないと、不平不満、愚痴モードに突入し、感謝な心で主に仕えることができなくなってしまいます。

僕は悔い改めました。「あなたにすべてをお捧げします」と言っていたのは自分が捧げたいと思える範囲だけであったということを。それから、主ご自身の助けなしでは、いかなる奉仕もできないということを宣言し主の前に負けを認めました。

信仰生活の基本

教会なしでは自身の救いはなかったと確信しています。また教会生活なくしては信仰生活はもないと確信しています。しかし、教会生活の前に、主ご自身との個人的な関係が崩れてしまっては教会生活はあり得ないと思わされました。

改めて、日々、時々刻々と主を賛美し、主を褒め称え、主に感謝し、祈り、御言にすがることが信仰生活の基本であることを思わされました。

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