1775_手段と目的を明確にすることよりも大事なことは動機

目的と手段を切り分ける

今年は、目的と手段を切り分けることの重要性をより一層実感しています。なぜなら、これまで僕はどちらかと言えば手段を目的にしていたからです。例えば、今僕が筋トレをするのは「健康」のためです。しかし、以前は筋トレをすること自体を目的としていました。週に何回するか?やどういったメニューを何セットするかばかり考えていたのです。

もちろん、筋トレガチ勢であれば、それ自体が目的でもいいと思います。しかし僕は筋トレをすることや筋肥大を目的として取り組むことができませんでした。それ以降、方針を変えて「健康維持」を目的として筋トレはくまでもそれを実現するための手段となりました。今は僕にとってはこれがいちばん合っていると思っています。

生きた信仰が感じれなくなった

また信仰生活においては、これまでは一日に何時間祈るか?や早く起きて祈れるか?そういった行為自体を目的としていました。そして、そのような態度では習慣はほとんど続きませんでした。それは行いが重視され、律法主義的になり、機械的になり、生きた信仰が感じれなくなったからです。

しかし、それらを手段として、イエス様と深く交わることを目的とするようにしました。その途端に僕は背負っていた重荷がどさっと落ちるのを感じたのです。今は1日に何時間いのるか?などのを自分には課していませんが、早寝早起きなどによって主と交わることができていると感じています。

律法主義的になるか?恵みによって生きるか?

僕は未だに律法主義的になるか?恵みによって生きるか?についてうまく言語化することができません。なぜなら、自分に課さなければ流されてしまうからです。自分に課さなければ自分ができていないことを自覚することすらできません。誤解を与える書き方かもしれませんが、自分に何かを課すことは必要だと思っています。

それによって自分の反応がわかります。課してもできないとわかるのです。それは何も日常生活の習慣だけではなく聖書の御言を実際に実行することも同じです。まずはやろうと思わないと自分が聖書の御言ができていないかどうかすらもわからないのです。

動機がよければ

大切だと思っているのは何かを自分に課すことではなくて動機です。動機がよければ主が導いてくださいます。主と深く交わりたい。主のことをもっと知りたい。主にあって変えられたい。福音が広がってほしい。などの動機から自分に何かを課すのであれば、主は義の道へと導き、そして恵みによって生きることを教えてくださると信じています。

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