恵まれた環境
主に出会って魂が救われてから僕は変わりました。しかし、今年一年も自分を大きく変える一年になったと思います。おなかの中にいる次男に病気がわかり、18時間だけ生きて天に召されるという体験は自分の人生観を完全に変えてしまいました。
前提として、クリスチャンは主の御言を強く握りしめており、また聖霊による直接的な励ましやなぐさめを頂いて生かして頂いています。さらに教会というコミュニティーにも属しており、互いに祈りあう共同体も持っています。
心は正直
このような恵まれた環境にいるので、油断さえしなければ落ちようと思っても落ちきることはないという恵みのセーフティーネットに守られています。これは本当にそうだと思っています。しかし、僕がこの一年を過ごす中で思ったのは「ふとした時」に自分の心の中が顕わになるということです。
「あなたはわたしに従ってきなさい」という御言を握っているにもかかわらず、「なぜあの人は?」とか「あの人はどうなのですか?」とか「なぜ僕だけ?」というような心の声が出てくるのです。
自分の努力によって
僕はその度に心が落ち着かなくなりました。そして放置しておいくと心の中が汚くなっていくのを感じました。その度に、悔い改めて祈りによって乗り切ろうと思っていました。そして、形から入り、自分の努力によって修行的要素を生活の中に取り入れて自分を制御するという方法をとっていました。つまり、根本的に癒されていなかったのです。
しかし、昨日ブログで書いたように自分の力ではどうしようもない。自分は頼りない存在だ。何をしようにも挫折してしまう。というような状況におかれ、何としても、藁にもすがる思いでペンテコステ派の集会に参加したいという飢え乾きが自分の中に起こってきました。
強い主
自分が頼りにならない存在であるとわかった時に自然と出た言葉は「私たち家族を助けてください」という言葉でした。自分がつらいのは我慢できます。しかし、嫁さんや長男が痛みや悲しみを抱えているのを見ると、大きな心の痛みを覚えます。
自分の心のを主に委ねた時、僕は「強い主が僕の心の中で生きてくださっている」ということを強く体験しました。それは救われた時に体験した「主の十字架は僕のためであった。主は僕のことを愛してくださっているんだ」というものと同じでした。
主は生きておられる
「主が生きている」ということはどうすればわかるでしょうか?聖霊によるしかないという自分の信仰の原点に立ち返ることを教えられた一年でした。
コリント人への第一の手紙 12:3
そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。
ゼカリヤ書 4:6
すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。













