1692_関係の始まりは信仰の土台

その人との関係によっている

昨日は聖書の御言に触れられて、主には確かにできるという信仰がやってきたと書きました。信仰とは目に見えないものですが、ぼんやりしていたり、雲をつかむような存在ではありません。また、思い込みやポジティブシンキングによって自分を奮い立たせることでもありません。

信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することであると聖書にありますが、その信仰の土台は関係にいきつくと思います。信仰とは意味が異なりますが、信頼できるかどうかはその人との関係によっているのです。

「関係」が生まれる

聖書における神様との関係は、イエス様の十字架の血潮による贖いによって始まります。イエス様は自分の罪のために死んでくださった。イエス様は私の救い主だと告白する時に、初めて「関係」が生まれるのです。

もし、それがなければ、イエス様との関係はなくなってしまいます。これが他の宗教との絶対的な違いだと思います。他の宗教でも宇宙や創造主といった絶対的な存在を認めることがあります。特に旧約聖書はいくつかの宗教でも経典として受け入れられています。だから、キリスト教は旧約聖書(古い契約)ではなく、新約聖書(新しい契約)こそが大切です。それがイエス様の十字架による新しい契約です。

今も生きておられる

そして、その関係の始まりは決して言葉で告白して、「そうだからそうなんだ」と思い込むものでもありません。教義を知ってそれを思い込むだけなら、キリストは死んでしまっているのと同じです。キリスト教の奥義はキリストが生き返って今も生きているということです。つまり、関係の初めには生きたキリストとの出会いがあるのです。

信仰生活において、イエス様の愛は決して変わりませんが、人間側は変わります。イエス様は永遠の変わらぬ愛で愛し続けてくださっていますが、人間側は往々にして、状況や環境の変化によって離れたりしてしまうのです。

正しい位置に戻してくれる

しかし、幸いなことは関係は救われた時に始まっているということです。たとえ、一時的にイエス様との関係が希薄になったとしても、「はじめの愛」に帰ることさえすればいいのです。それは魂の救いです。イエス様の出会ったあの頃の感動です。それがいつも正しい位置に戻してくれるのです。

御霊の実、聖霊の賜物などクリスチャンが求めるべきものは多くあります。いつまでも残るものは信仰と希望と愛で、愛が最も大切なものです。

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