一言に弱いといっても
僕は自分が弱いから主が必要だと思っています。しかし、一言に弱いといっても様々なものが含まれます。たとえば、心が弱る、魂が弱る、罪に弱い、誘惑に弱いなどあります。僕はこれまで、どちらかと言えば後者に関して自分の弱さを主の前に告白して主に近づいていたと思います。
つまり、自分が罪を犯してしまった時、自分が誘惑に負けてしまった時に痛感する自身の弱さです。そして、主は確かに十字架の血潮によって私を赦し立ち上がらせてくださいました。
一人の人としての徹底的なへりくだりからくる弱さ
しかし、今日歩いている時に思ったことは、罪に弱くて誘惑に弱いがゆえに主に近づくのは本当に神様が望んでおられることではないと思わされました。もちろん、それは決して悪いことではありません。主は悔い崩れた砕かれた魂を慰め、赦し、再び立ち上がらせてくださいます。
もしかしたら、主が望んでおられるのは、こういうことかもしれません。
「自分にはどうしようもない、自分には何もできない、だから主が必要」だという、一人の人としての徹底的なへりくだりからくる弱さを知って主に近づくことです。これが本当の弱さだと思ったのです。
すべてにおいて
たとえば、福音宣教はどうでしょうか?福音宣教こそ「自分にはどうしようもない、自分には何もできない、だから主が必要」なものです。しかし、実際は日々の生活の隅々においても実は「自分にはどうしようもない、自分には何もできない、だから主が必要」なものだとわかります。
僕はそれがずっとわかりませんでした。自分はまぁまぁできる、比較的できる、だいたいできる、いや結構できているほうだろうと思い込んでいたのです。しかし、様々なところを通る中で教えられたのは、実はすべてにおいて、「自分にはどうしようもない、自分には何もできない、だから主が必要」ということでした。
あなたのおきてを学ぶ
「自分には何もできない」ということを痛感させられるのは、実は相当不安なことです。なぜなら、自分では立てなくなるからです。人間は本能的に反射的にそういったことを考えるのを拒絶します。しかし、その不安は肉における不安だけです。霊によって自分には何もできないと認めるならば、自然と主への渇望や飢え乾きが起こります。
これまで僕は何度も形から入ろうとしていました。しかし、そのような状態に導いてくださった主に感謝です。
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。 これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。 あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです。
詩篇 119:71-72