1478_犠牲の原則の美しさ

惜しみなく捧げた

昨日はサムエル記上からハンナの「犠牲」について書きました。彼女は不妊症に悩む女性でした。その彼女に子どもが与えられるということは何にも勝る喜びだったでしょう。しかし、彼女の喜びは子どもが与えられたことだけにあったわけではありせん。むしろ主が自分を顧みてくださった、そのことのほうが彼女にとって大きな喜びだったのです。

だから、彼女は待望の長子であるサムエルを主にお捧げすることを霊においていとわなかったのです。乳離れした瞬間に惜しみなく捧げたのです。これは、犠牲の美しさです。

牧師先生の犠牲

聖書の原則の一つに「犠牲」があります。天の父は独り子なるイエス様を惜しみなく捧げてくださいました。信仰の父であるアブラハムも待望の長子イサクを主に捧げました。一人の「犠牲」には大きな力が伴います。なぜなら、たった一人の犠牲によってその祝福が周りの大勢の人に広がっていくからです。

それは教会に行けばすぐにわかります。多くの教会にはフルタイムで献身された牧師先生がいることでしょう。その教会が恵まれたり祝福されるのは主のご臨在があるかどうかにかかっています。しかし、その教会には主に捧げられた器があるのです。それはご自身の人生を捧げられた牧師先生の犠牲です。

素晴らしい真理

これは素晴らしい真理です。また僕たち一人一人に大きなチャレンジを与えてくれます。なぜなら、たった一人の犠牲によって祝福が周りの人に及ぶということを表しているからです。つまり、もし自分自身も主のために喜んで犠牲を捧げたいと思えるなら、その犠牲によって大きな主の御わざや祝福が周りに及んでいくのです。

では、実生活における「犠牲」とはどういったものでしょうか。様々な犠牲が考えられると思いますが、簡単に考えるとこうなると思います。それはこのようなものになります。

1日24時間与えられていて、睡眠や食事や仕事や勉学などの時間を除いた可処分時間を何に使うか?

犠牲は具体的には、自分が仕えている教会や地域での実際的な働きのことかもしません。あるいは、祈りの時間かもしれません。

霊的な戦いを勝ち抜くための祈り

僕が最近教えられているのは祈るということです。もちろん、祈りは恵みの時間です。祈りの人からしたらそれは犠牲とはいえないかもしれません。しかし、自分のやりたいことしたいことの時間を捨てて、主のために時間を取って祈ることも犠牲の一つになると思うのです。

また祈りの性質は様々です。感謝と喜びに満ちる祈りもあれば、霊的な戦いを勝ち抜くための粘り強い祈りあります。僕はこの祈りからはじまってそこから実際的にどのような犠牲ができるのかは主から教えてもらえるのだと思うようになりました。

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