1143_自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。

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自分を憎んだ者はいない?!

聖書にこのような言葉があります。これは僕にとって長らく理解できない言葉でもありました。

自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
エペソ5:29

僕自身は自分のことが好きなどとは思ったことはないと認識しています。このブログに書かれている自虐的な側面は決してネタではなくて、本当にそう思っているから書いているだけです。

自分を憎んでいると思っている

救われる前の自分の姿を憎んでいることはもちろんのこと、むしろ、救われたあとの自分自身の頑なさや自分さえよければいいと思う自己中心性、言っていることとやっていることが違い、言行が一致していないことを思うと自分自身が憎らしいとすら思うのです。

しかし、上述した聖書箇所には「自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。」とあります。この言葉を僕はどのように理解したらいいのか長い間わかりませんでした。

実は自分を大切にしている

しかし、自分のありのままの姿を直視して突き詰めていく過程で、確かに自分は「自分を憎んでいると言いながら、実は自分を愛している」ということが明らかになったのです。

それはどういうことかということ、本当に自分を憎んでいる人は自己否定ができるはずです。しかし、憎んでいると言いいつつも自己中心性はしっかりと残っています。それはつまり、自分を愛しているということです。

自分を本当に憎んでいる人は、自分の時間がなくなったってなにも文句は言わないでしょう。自分自身を憎んでいる人は、おいしいものを食べて自分を満足させる必要もないでしょう。つまり、自分を憎んでいると言いながら、実態は自分が大好きで自分を喜ばせようとしているのです。

だからこそ、聖書は「自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。」と言っているのだと思います。

両面を持ち合わせている

しかし、世の中には確かに自分を憎んで自死という選択をする人もいます。それはどのように理解すればいいのでしょうか。

おそらく、誰にでも自分を憎む側面と自分を愛したい側面があるのだと思います。ある側面においては、自分を憎んでいたとしても、別側面では、あるいは無意識の領域では自分を愛している、あるいは愛したいという願望があるのだと思いました。

それも含めて受け入れて下さっているお方

聖書には偉大な真理があります。それは、自分が憎たらしいと思っている側面を含めて、それを受入れてくださって愛してくださっているお方がいるということです。むしろ、実際に憎たらしいことをしていた時に先にイエス様はそんな者のために十字架にかかってくださったのです。

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