0993_落語をシャドーイングすることは説教の役に立つか?

シャドーイングとは?

先日メルカリで頼んだ桂枝雀師匠のCDが届きました。これから少しづつ復習がてら聴いていこうと思っています。以前僕は落語を聴きながらシャドーイングをしていました。シャドーイングとは言語学習で使われるメソッドの一つで、テキストを見ずに音声だけを聴いて、聴いてから1秒~2秒後くらいから追いかけるように口で真似をすることです。これは言語学習に非常に有用で、僕も中国語学習の時によくしていました。

基本的に知らない単語は聞き取れないので、自分が理解していない単語がよくわかるようになります。また当然のごとく何も見ないので集中して音声を聞かないと、忠実に真似して発音はできません。これでリスニングが鍛えると同時にスピーキングも鍛えられて一石二鳥というわけです。

なぜ落語をシャドーイングするのか?

落語をシャドーイングしていたのは、師匠の落語自体がキリスト教での説教でそのまま応用が利くと考えたからです。まず、大前提として説教は言葉ではありません。聖書にもこのように書かれています。

神の国は言葉ではなく、力である。
コリント14:20

説教や伝道は言葉をもってされますが、神の国がそこに訪れるのは神の力によるものです。五感においては言葉を媒介にして神の国が語られますが、目に見えないところにおいては、聖霊の働きによるものです。だから、説教は聖霊の働きのいかんというわけです。

言葉は確かに大切

しかし、聖書のほかの箇所にはこのようにも記載されています。

聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
ローマ10:14-15

つまり、神の働きは言語を通して行われるということです。聖霊によらなければ神の国は現れないと同時に言葉によらなければ伝えられないということです。ここに重点をおいた場合、やはり語るものは語る表現や方法をしっかり身に着けないといけないと考えています。

落語は日本人に合っている

といっても僕は神学校にも行っていないので、説教学などは学んだことはありません。だからこそ、福音を語る者として成長できるように落語を通して学びたいと思っています。落語が優れているのは日本文化に深く根差しているところです。その物語性や表現や方法は日本人に違和感のないものです。実際僕が知っている多くの牧師先生は落語を聴いていますし、落語家として活動されている牧師先生もいらっしゃいます。

もちろん、海外のリバイバリストや大衆伝道者からまねるものいいかもしれませんが、やはり日本と文化が違うのでどうしても直接的な表現が多く日本人の心の琴線にはなかなか触れにくい側面があるのではないかと思っています。そういうわけで、落語のシャドーイングを頑張ります。

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