0468_不毛な痛みと万事が益となる痛み

不毛な筋トレ

ほぼ全く知識がない状態から筋トレを始めました。筋肥大には筋肉痛が伴うと知ったので、バカの一つ覚えでトレーニングをした部位に痛みが走るまで追い込みをしていました。自分の満足感は翌日に筋肉痛が来るかどうかにかかっていて、翌日に筋肉痛がない時は昨日の筋トレは意味がなかったと解釈し、次回はより負荷の高い筋トレをするようにしていました。

ただ、最近発覚したことは自分が感じている痛みは筋肥大に繋がる筋肉痛ではなくて、ただの怪我だったということです。もともとトレーニングはYoutubeやInstagramの動画を見よう見まねでやっていたので、どうも正しいフォームでできていなかったようです。

筋肥大には痛みが伴うというのは事実かもしれませんが、それが筋肉痛からくるものなのか、怪我からくるものなのか、で全く違います。一方は有益、一方は無益どころか有害だったのです。有害な痛みを良しとして、満足していた自分の無知さに穴があったら入りたくなりました。

効率的なこと

このように自分では「痛み」があるから成長できていると思っていても、実際は全く不毛な痛みであることもあります。例えば、受験勉強でしんどい思いをして勉強しても、方法が間違っていれば、しんどさに比例した知識を効率的に得られないかもしれません。100覚えられるところが50に減衰するのはまだましとしても、仮に受験に必要のない知識を覚えてしまったら、不要なメモリを食ってしまいますので、それは有害と言えるかもしれません。

他にも、僕は以前、仕事で手作業で数時間かけてやっていた仕事に誇りをもっていました。自分は役に立っている。貢献できていると思っていました。しかし、実際は、わざわざ人が数時間かけなくてもプログラミングを数百行かけばシステムが自動でやってくれるような仕事だったのです。もしシステム化されれば、手作業時間の数時間が開くので他の業務をして付加価値を生み出すことともできます。

人間はおそらく、時間をかけたもの、労力をかけたもの(しんどさや痛みを伴うもの)に誇りや意味を持ちたい生き物ではないかと思いました。

非効率でも益となること

一方で教会や神様のためにしたことはどうでしょうか?僕が合理主義者だった頃、教会の奉仕に関して、投入した奉仕時間に対して救われてくる魂の少なさに効率が悪いと考えていた時期がありました。本来なら自分のために使える時間を神様のために使っても見えるような結果が伴わないことに不毛さを感じたことがあったのです。

しかし、教会や神様のためにしたこと、時間、エネルギーすべて無駄に地に落ちることはありません。聖書には明確にこのように書かれています。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
ローマ8:28

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
ガラテヤ6:9

この世の原則ではよかれと思っていても、無益、あるいは有害になることがあるかもしれませんが、神様のためにしたことは、神様の御手の中で必ず益になると信じて行きていきたいです。

おっさん
■頑張っていても実は無益どころか有害となっている場合がある
■しかし、神様のためにしたことは一つとして地に落ちることなく万事が益となる

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