体験
今日は少し書きにくいことを書こうと思います。それは「体験」についてです。キリスト教は決して数千ページに及ぶ分厚い聖書に関して難しい神学や教義をあれこれいう宗教じゃありません。また「確信があるわけではないけれどたぶん信じていると思う」というような曖昧なものでもありません。
キリスト教とは体験の宗教であり、確信の宗教でです。確信するのは今も生きているキリストに出会うからです。そして確信し続けることができるのは聖霊が御言を活性化させ続け、僕たちの魂に命を与え導いてくれるからです。
主との個人的な関係
まず、体験について書きます。キリスト教徒は主との個人的な関係がすべてです。モーセ、アブラハム、ヤコブなど旧約聖書に登場する人物は必ず1対1で主と出会う体験をしています。モーセは燃える柴の中で主の栄光を見ました。ヤコブは苦悩の中、夜を徹して神と格闘しました。イザヤはウジヤ王の死んだ年に主の栄光を見ました。
決してこういった描写がなくてもアブラハムやヨセフやエリヤなどは主と親しく交わっていたことがわかります。そして、その生きた主との交わりは新約聖書でも同じです。12弟子は確かに肉においてイエス様と出会う体験をしていましたが、ペンテコステの日に霊において出会う体験をしました。それはサウルも同じです。
その体験こそが価値観を変える
僕が体験を強調するには理由があります。それは主が今も生きているならそれを感じることができないはずがないと思っているからです。生きているもの、命があるものは必ず感じることができます。そして、その体験こそが価値観を変えると思っています。
もちろん、こういった体験がなくても聖書を信じ、主を救い主として信じると決心をする時に魂は救われます。しかし、それと生きた主と出会っていることとはまた別のことです。そして、その体験をして以降、自身の霊が活性化されるので、聖霊が御言によって命を与え続けてくれます。
自分には罪に打ち勝つ力がない
聖書には「水と霊とから生まれなければ神の国に入ることはできない」と明確に書かれています。また主イエス様は聖霊によってバプテスマを施すと約束されています。水のバプテスマで人は救われます。しかし、それだけでは遅かれ早かれ、こういったことに気づくと思います。
「自分には罪に打ち勝つ力がない」、「以前の生活と変わっていない」、「ただ毎週教会に行っているだけ」、「信じれない時がある」、「本当に天国に行けるのか不安に思うことがある」
しかし、この聖霊のバプテスマはこれらすべてに答えを与えてくれると信じています。
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