1951_確かにしんどい時もあるけれど、本人には努力している意識がない | これがキリスト教信仰の努力

しんどくなってしった

ここ3日ほど「努力」や「奮闘」するという側面を強調して書いてきて思ったことがあります。それはそこが強調されると、とてもしんどいということです。僕自身書いていてしんどくなってしまいました。そもそも、クリスチャンの信仰とは、イエス様のくびきを負い、軽い荷を負う生き方です。

マタイによる福音書 11:29-30
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

動機である愛

もし、人間の努力だけが強調されるならそれはクリスチャンの生き方ではありません。それこそ的外れの生き方になります。しかし、だからと言って、パウロが書いているように奮闘したり努力したりすることが軽視されることもバランスを欠いていると思います。

クリスチャン信仰における努力に関しては動機である愛を欠いてはいけません。愛を動機としているがゆえに決して強いられてではなく、自らすすんで主体的に能動的に率先してしている点が大切だと思います。

本人には努力している意識がない

たとえば、自分の両親が「3泊4日の沖縄旅行の全日程を考えてくれ」と僕に依頼してきたとします。僕は両親を心から愛しているので最も素晴らしい旅行になるようにあらゆる調査し、ヒアリングをし、良いホテル、良い食事が食べられるように手配すると思います。

しかし、その過程でうまくいかないこと、たとえば交渉がうまくいかない、予約がいっぱいで想定していたところを予約できない、観光の順番をどうしよう?など頭を悩ませる問題などは起こるでしょう。

それに対して、くらいついて努力し奮闘はすると思うのです。僕はクリスチャン信仰における努力や奮闘はこういった感覚ににていると思います。

確かにしんどけれど、本人には努力している意識がないという点が大切なのだと思います。

土台はイエス様の愛

ここ数日、努力に関して書いてきて、しんどく思われた方、もしくは、不快に思われた方がいらっしゃったら申し訳ありません。キリスト教信仰の土台はイエス様の愛にあり、愛の中で安らぎ、平安を得て、喜びをもって主に仕えるという点を強調して終わります。

マタイによる福音書 11:29-30
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

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