1892_無知と愚かさからくる偏見 | 悔い改めに導かれたこと

偏見の塊

僕はこれまでカトリックに対してこれまで偏見があったことを悔い改めなければなりません。まず、ローマカトリックに関しては下記理由につき偏見を持っていました。近年明るみになった司祭や修道者による性的虐待の報道、聖母マリア様を祈りの対象とする、その他、絵画、ロザリオなどの道具が崇拝の対象になっているのではないかという無知からくるものです。

そして、ロシア正教に関してはロシアのウクライナ侵攻を正当化する政治の道具になっていると思っていました。戦争を仕掛ける国が信じている宗教がまともなはずがないと思っていたのです。しかし、これは森を見て木を見ずで短絡的な考えによる無知以外にありません。

全くの偏見

僕は40歳になって、こういったものが全くの偏見であることを知りました。それは最近、このブログで何度も書いているようにカトリックの修道女や修道士の書籍から多くの霊的なことを学んでいるからです。特に僕は祈りの生活に関してずっと探求し試行錯誤してきましたが、カトリックのそれは相当、言語化されており霊的な訓練として具体化されていると感じたのです。

だから、何事においてもそうですが個人レベルで判断しないといけないということです。ある一人を見てそのグループ全体がだめだと判断するのは愚か、無知、偏狭、全く愛のない行動です。

断罪するのは楽

実際にカトリックだろうか、プロテスタントだろうが、あるいは福音派だろうが、ペンテコステ派だろうが、何かしらの問題は必ずあるものです。明るみになっていないか、取り上げられていないか、または問題の性質が違うなどの理由があるだけだと思います。

確かに何か問題が起こってその一点を見て、そのグループ全体を断罪するのは楽です。しかしそれは、聖書が教える品性ではありません。アメリカがキリスト教国にもかかわらず、ベネズエラの大統領を捕縛した。次はキューバか?そしてイラクに侵攻しようとしている。だから、アメリカのキリスト教がだめになるのでしょうか。

自分自身が恐ろしい

実のところ、その国の行動と宗教はほとんど関係ありません。国は国、人は人です。にもかかわらず、僕はカトリックに対してその思考で見てしまっていたのです。僕は自分自身が恐ろしくなってしまいました。頭ではわかっているつもりでも、実際の思考はそうではなかったからです。

僕は今日も跪いて悔い改めなければなりません。

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