1889_トマス・ア・ケンピス著の「キリストにならいて」 | 中庸のすすめ

身体、知性、霊性の三つのバランス

昨日はクリスチャン生活を送るには身体、知性、霊性の三つのバランスをとらないといけないということを書きました。そして、そのバランスをとるのは人間には不可能であり、聖霊に導いてもらわないとできないと書きました。

なぜなら、そのバランスは絶妙に取り続ける必要があるからです。天秤のように片方に偏りすぎると片方が上がりすぎてしまうのであれば2点に注意していればいいです。しかし、人間の存在はそんなに単純じゃありません。

キリストにならいて

身体、知性、霊性と大項目としては3つだけですが、そこから中項目、小項目と細分化していくと実際にバランスをとらないといけない対象はその数は数十、もしかしたら数百に及ぶと思っています。だからこそ、そのバランスを人間が取り続けるのは無理だと書きました。

こういったことに関して、今朝読んでいたトマス・ア・ケンピス著の「キリストにならいて」には別の表現で書かれていました。それは「中庸」と言う言葉です。

中庸とは、かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。

引用元:kotobank.jp

過不足なく

身体、知性、霊性が過不足がなく調和がとれている状態になるには、聖霊によらなければ決してできません。そしてその土台となるのは霊性です。過不足なく満たし、調和をとれるようにしてくださるお方はただ一人です。

ピリピ人への手紙 4:19
わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。

詩篇 23:1
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。

エペソ人への手紙 3:19
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

中庸

僕はプライベートでは異言で祈りますが、パブリックな祈りでは知性での祈り一択です。僕はペンテコステ派の説教も聴きますが、福音派の説教も聴きます。僕はカトリックの書籍も積極的に読み、そしてその生活の良いところを実生活に入れようと思っています。教派宗派においても、中庸は大切だと考えています。その理由は下記御言のとおりです。

ピリピ人への手紙 4:8
最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。

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