1820_沼に落ちる夢を見て考えたこと | 同じ失敗を繰り返す自分と向き合う信仰

沼に落ちる夢

僕は時々変な夢を見ます。先日は沼に落ちてしまう夢を見ました。体全体にのしかかる重い土から這い上がるのは非常に困難でした。顔も全身も泥だらけになり必死にもがくが、次第に落ちていくという壮絶な夢です。

これは僕の深層心理の何かを現わしているのかもしれません。僕はヨセフのように夢の解き明かしはできないとしても、何かのメッセージなのではないかと思いました。心理学の世界ではユングが夢分析などをしており、学問として成立しています。

豚は洗われても

僕には恥ずかしいながら悔い改めないといけない罪があることを自覚しています。そこに留まることはよくないことだと一時的に霊的にはわかっているにもかからわらず、留まろうとしているのです。聖書は僕のことをこのように言っています。

ペテロの第二の手紙 2:22
ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

僕はまさに霊的に沼の中にいるのです。もがけばもがくほど苦しい。しかし、そこでイエス様に助けを求める。イエス様は確かに手をさし伸ばし助けてくださる。しかし、僕は驚くべきことに自分で再び沼に戻ろうとしているのです。

苦しみから学ばないなら

先日、牧師先生がこのようなことを言っていました。聖書にはこのような言葉があります。

詩篇 119:71
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。

もし、人が試練や苦しみから何かを学ぶならば、その人にとって良いことです。その人は霊的に成長する人です。しかし、もし現在の僕のように苦しみから何も学ばないならば、その人には苦しみしか残らないということです。なぜなら、同じことを繰り返しているからです。

熱いか冷たいか

僕は自覚しています。それはせっかく立て直した祈りの神殿が再び崩れ始めていることにです。昨年から少しずつ再建してきた自分の中の祈りの神殿が危機に瀕しているのです。僕は再び日常の引力に甘えてしまっているのだと思います。

僕の問題はまさにやっていないことではなくて、「そこそこやってしまっている」というところにあると思っています。そこそこやっているから逆に危機感がない。むしろ、熱いか冷たいかであってほしいというイエス様の声が心に響いてきています。

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