クリスチャンの排他性について

今週の月曜日は、以前勤めていた会社の先輩と食事に行きました。先輩が仕事の関係で、東莞に来ることになったからです。先輩は、私が中国へ行った2ヵ月後(2012年6月)に、広東省広州市に転勤になり、それ以来、時々、私に電話をかけてきて、私をいじってくださったり、また、私が広州へ行った時は、食事に連れて行ってくださったりしてくださいます。

先日は、その先輩と先輩のお客さんの3人で食事に行きました。17時半頃に先輩が宿泊するホテルで合流しましたが、まだ、食事には時間が早すぎるということで、3人で周辺をぶらぶら歩いていました。太陽は沈みかけていて、昼間の暑さも落ち着いて、夕方の風が肌に気持ちよく、散歩にはちょうどいい天気でした。お客さんと私は初対面なので、先輩が私のことをお客さんに紹介してくれました。

先輩
こいつは、布教活動するために中国へ来たんですよ。
お客さんにストレートに言う先輩。

改めて自分の渡中目的を客観的に聞いて、自分でもちょっと驚いてしまった。ちなみに、今回の渡中目的を詳しく言えば、「将来、中国での布教活動を視野に入れて、今のうちに中国語で聖書や中国の教会のことを学ぶこと」です。

お客さんは、少し驚いたような顔をして、私にこう聞いてきました。

お客さん
いつから、クリスチャンになったんですか。

私が幼い頃からクリスチャンだと言うと、少し間を置いてから、こう言いました。

お客さん
実は、私もクリスチャンなんです。

そのお客さんの話によると、彼女がクリスチャンで、結婚する時に、彼女からクリスチャンになるように説得されたそうです。そして、彼女に言われたとおり、クリスチャンになり、週に1回は車で1時間かけて、京都から大阪の教会まで行き、礼拝を守っているそうで、毎週大変だと言っていました。さらに、平日は週に1回、奥さんと一緒に、京都の教会の集会に参加していると言っていました。

そのお客さんは、このような堅苦しい生活を嘆いて、もう、本当に勘弁してほしいと言っていました。そのお客さんの目には、クリスチャンは面倒な集団と映っていたようでした。夕方の街を3人でぶらぶら歩きながら、そのことについて考えてしまいました。

堅苦しい信仰生活

中国へ来てから、中国ではクリスチャンが増え続けているのに、なぜ日本では増えないのか、について、ずっと考え続けてきました。

  1. 教会の組織に構造的な問題があるのか
  2. 霊的な壁が打ち破られていないのか
  3. キリスト教徒が悔い改めていないのか
  4. キリスト教の教義に問題があるのか
  5. 日本人の宗教観に問題があるのか
  6. 神道が生活の隅々までに浸透しているからなのか

その原因は複雑で、要因も多項目にわたると思うので、簡単にこうだ、と言えないと思うのですが、クリスチャンが増えない要因のそのひとつに、未信者のクリスチャンに対するイメージが良くないということが、挙げられると思います。

堅苦しい信仰生活

  1. 聖日(日曜日の集会)を守らなければならない
  2. 収入の10パーセントを納入しなければならない
  3. お酒を飲んではいけない
  4. タバコを吸ってはいけない
  5. 婚前交渉をしてはならない

そして、私自身は、この禁欲的なイメージは、決して聖書の教えが形成しているのではなく、クリスチャン特有の排他性が、生み出しているものだと思っています。ある牧師先生が、日本人クリスチャンはパリサイ的なところがある。とおっしゃっていました.

パリサイとは「分離した者」と言う意味で、律法を守らぬ人間と自らを分離するという意味があるそうです。

確かにクリスチャンは、救われて、神の者になり、世から分離された存在なのだとは思いますが、もし、以下のような質問を投げかけられれば、答えに窮してしまいます。

「下記のような戒めを守れていない人を、クリスチャンとして受け入れられる愛の心がありますか。」

大酒のみのクリスチャン
タバコを吸うクリスチャン
集会を守らないクリスチャン
収入の10パーセントを納めないクリスチャン
結婚前に性交渉をするクリスチャン

このような人たちを受け入れられますか。

そして、この問いに対し、こんなクリスチャンたちは受け入れる必要はないというのが、クリスチャンの排他性だと思います。ここでいう「受け入れる」というのは、その行為を許容するというのではなく、彼らのために祈り、とりなすことのできる心の広さを指します。

新約聖書のコリントの教会の姿を見れば、当時の教会には良し悪しは別にして、色々なクリスチャンがいたことが分かります。もちろん、私はここで、これらの行為を正当化しているわけではありません。聖書の言葉、その道徳基準、またはその教義から言えば、上記のようなクリスチャンは、失格の烙印を押されるでしょう。

しかし、たとえ上記のような、外から見える戒めは守れていたとしても、私たちクリスチャンは、たとえ救われたとしても、また、イェスキリストのようになりたいと願っていても、絶えず押し寄せてくる波や、荒波、泥沼の中で、自らの意思にかかわらず、心の中は、汚くなり、濁ったり、腐乱臭を放ったり、または、冷たく、硬く、じとじとしたり、してしまいます。

あえて、低俗な汚い表現を使えば、「クリスチャンの心の中もうんちのように汚く、臭い」ものだと思っています。クリスチャンも失格の烙印を押されてもおかしくない存在です。ただ、恵みの中で生かされているだけです。救われて、神との関係が改善されて、哀れみを求めて、神に赦しを求めて、恵みの中で生かされているだけです。

一方、イェスキリストは、罪人を受け入れ、愛されました。クリスチャンになれば、立場的には、神の目から見れば清い者とされますが、実際的には、完全に清いクリスチャンなどなく、完成を目指して歩いているだけです。

だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、哀れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。互いに忍び合い、もし互いに責むべきことがあれば、赦し合いなさい。主もあなたがたを赦して下さったのであるから、そのように、あなたがたも赦し合いなさい。

カナンの地は今日も輝いています。

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