今さらながら、手首に、WWJDのリストバンドをつけるようになりました。学生からのもらい物です。その学生はキリスト教徒ではありません。どうも彼は、テレビでアメリカのバスケの選手が、手首につけていたのを見て、ほしくなり、ネットで購入し、身に付けるようになったそう。私がキリスト教徒だと言うと、家にまだたくさんあるからと言って、ひとつプレゼントしてくれた。
WWJDとは、What Whould Jesus Do?で、「もしイェスだったら、こんな時どうするだろう」の意味です。アメリカでキリスト教を信仰している有名人の多くが、身に付けたことにより、人気が出たそうです。リストバンドを付けて生活を始めてから、様々な場面でこの言葉が迫ってくる経験をしました。何か感情が乱れることが起きた際、その言葉が力を発揮するのを感じました。その言葉が、私をその問題の場所から目を引かせ、少し離れた所から物事を見ることができるようにしてくれました。
これは、昨日の出来事です。
今週から新しいクラスを担当することになり、日本語の五十音から学生に教えています。日本語の発音を教える中で、複数の学生が、日本人の私に対して日本語の発音が悪いとクレームを出してきました。中国人相手に授業をしていると、ちょいちょい、こういうことが起きます。
指摘内容は、わたしが話す清音(濁点のない音)がすべて濁音(濁点のある音)に聞こえるという指摘でした。私が発音した「た」が、学生には「だ」に聞こえるらしいです。2年間日本語を教えてきましたが、五十音を教えると必ずこの指摘を受けます。
聞き間違える原因は、双方の言語の違いにあるのであって、決して私の発音が悪いわけではありません。例えば、日本語で、
清音「た」[ta] 濁音「だ」[da]
を発音する際は、声帯を振動させるかどうかで決めますが、中国語には濁音は存在せず、[ta]と[da]の違いは、口から息が出ているかどうかで決めます。有気音と無気音です。
[ta]は有気音で、発音の際、口から息出す。[da]は無気音で、発音の際、口から息を出さない。
ですから、中国人にとってみれば、声帯振動の有無によって聞き分ける言語習慣がないため、それが聞き取れないのは当然のことです。ましてや、勉強を始めてまだ3日ほどしか経っていませんから、聞き取れないのはそんなに大きな問題ではありません。
昨日もいつもと同じように、聞き取れない原因は、双方の言語上の違いにあるのであって、私の発音が悪いわけじゃないと言った。しかし、学生が納得しない。他の中国人の先生の発音は綺麗だと言います。母国語を話す日本人に対して、日本語の発音に関して、たてついてくるなんて、本当に失礼極まりないと思いました。若いから、なめられているのかもしれません。もちろん、すべての中国人がこうではありませんが、こういう人たちがいるのも事実です。
いつもなら、5分そこそこで納得させるのですが、今回は論争が15分ぐらい続きました。恐らく、うまく発音できない、正確に聞き取れない、うまくリピートできない、といったフラストレーションが溜まっていたがゆえに、その聞き取れない責任を、私に見出したくなかったかもしれませんし、それも分からないでもありません。
結局、ある一人の学生が、携帯を取り出し、レコーダーのアプリを起動させ始めました。その人は、私の発音が悪いことを私に分からせるために、録音して私に聞かせると言いました。私はその態度にあきれてしまい、言われるがままにしました。録音が終わり、教室内に再生され、彼らの中で、やっぱり発音がおかしいことが再確認されたようでした。ため息も出ませんでした。
あの言葉がふと頭に浮かんできました。どういう対応をしていればよかったのか考えました。
最初からなめられないように厳格なスタイルでいくべきだったのか。
最初にきつく言っておいたほうがよかったのか。
話をうまく切り替える方法があったのではないか。
言われるままにまかせ、無抵抗主義を貫くべきなのか。
結局、答えはわかりませんでしたが、分かったことは、「もし、イェスだったら、こんな時どうするだろう」と考え始めた瞬間に、最も避けるべき、発生させざるべき問題は、消えて、なくなってしまう。ものなんかもしれないと思いました。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
カナンの地は今日も輝いています。