私は15億人いるといわれている中国人を、ひとまとめに、「こうだ」と、わずかな表現でまとめてしまうのは、あまり好きじゃありませんが、もし、わずかな表現で中国人を形容するならば、私は、おもしろいという言葉を選ぶと思います。
日常生活を送る中で、本当になんでもない普通の日常風景の中に、おもしろい光景を見ることができます。
パトカーが信号無視して、住民の車両がパトカーに対して思いっきりクラクションを鳴らす。道路で教習車がパトカーをもの凄いスピードで追い越す。タイルの地面から、こんこんと水が湧き出ている場所がある。全く知らない人から急に、「お前車運転できるか」と聞かれる。
先日は、路上で朝食を買っていた時、前にいた女性がカーディガンを裏表逆さまに着ていて、首もとのタグが表に出てしまっていました。私が、そのことをその女性に伝えると、「すぐ家に帰るから逆さまでもいいんだよ!」と逆に怒られてしまいました。
仕事で疲れてくたくたでも、この突っ込みどころ満載の中国人の行動を見れば、疲れも吹き飛んで、すべて笑いに変わります。老若男女問わず、中国人全員が大阪のおばちゃんみたいで、天然なのか、そもそも思考方式、行動様式が日本人と大きく違うのか、なぜ、おもしろいのか、その原因はわかりません。
もちろん、中国人全員がおもしろいとは思いませんが、私の肌感覚から言えば、圧倒的におもしろくない人よりも、おもしろい人の数が多いと思います。
私が感じる中国のいい所は、日常生活の中で、人と人との距離が非常に近くて、見知らぬ人が、よく話しかけてくるところです。日本人は「隣の人は何をする人ぞ」と感じて、それ表に出さずに内にしまい込みますが、
中国人は「隣の人は何をする人ぞ」と感じれば、すぐに、それを相手に聞けばいいと考えていると思います。ある時、エレベーターに乗っていて、エレベーター内は私と顔見知りでないおばちゃんの二人だけ。扉が閉まると、すかさず、おばちゃんは、私が学生なのか、仕事をしているのか、聞いてくる。このような事は、どこでも、いつでも、起こります。
最初は、このような距離感に違和感を感じて、あんたには関係ないよ、ほっといておくれよ、と思っていましたが、いいか悪いかは分かりませんが、次第に慣れてきて、中国色に染まってきて、私もいつしかカーディガンの裏表をわざわざ指摘してしまうようになってしまいました。
改革開放の流れの中で、以前社会の中に根付いていた共同体が崩壊し、個人主義、個人の利益を追求する人が増加しているとはいいつつも、私が住んでいる都市部でも、これだけ人と人との距離が近いですから、農村部での地縁関係、血縁関係などは、もっと深いのだと思います。
中国でキリスト教が驚異的なスピードで広がっていった原因は、複雑で、多方面に及ぶと言われていますが、私はその原因一つに、中国人の思考様式の中には、隣の人は何をする人ぞと思えば、すぐに聞けばいい。また、隣の人が話かけてきたら、答えればいい。
という文化があったためではないかと思っています。
この人と人との関係の近さ、気軽さが、布教活動を容易にしたのではないかと思います。
イェスはこの女に、『水を飲ませて下さい』と言われた。すると、サマリヤの女はイェスに言った『あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女の私に、飲ませてくれとおっしゃるのですか』
隣の人は何をする人ぞと思えば、すぐに聞けばいい。また、隣の人が話かけてきたら、答えればいいイェス様もこのように考えていらっしゃったのかもしれません。
カナンの地は今日も輝いています。