1431_想像を多分に働かせたザアカイさんの話

涙なしでは読めない

涙なしでは読めない聖書の箇所があります。たとえば旧約聖書ですとエジプトに売り出されたヨセフとその兄たちの和解、またヤコブとエサウの再会などです。ここに登場する人たちは、当時は確かにそれぞれ未熟であり、配慮もなく、いわゆる「オレガー!」で生きていました。

しかし、主の導きの中、また試練を通して品性が練られ丸くなり、お互いを受け入れて赦し合うというところに至ります。だからこそ、深い感動を覚えるからだと思います。

ザアカイさん

一方、新約聖書で僕が最も好きな人物はザアカイさんです。一見、彼と僕の状況は全く違うように見えます。しかし、彼の姿に自分の姿を重ね合わせて読むことができるから感動を覚えるのだと思います。今から書くことは自分の想像を多分に働かせていることをおゆるしください。

ザアカイさんは聖書にわざわざ「背が低かった」と書かれています。このような身体的特徴の記述は他の人物にはほとんどありません。あえて記述する必要があるほどザアカイさんは背が低かったのだと推測されます。

あいつは罪人だ

背が低かったことが理由で人々に馬鹿にされることがあったということは想像に難くありません。彼はそのような中で何とかして見返してやりたいという気持ちがあったのでしょう。そして、ローマ支配のもとで、自分と同じユダヤ民族から税と取り立てることができる取税人の仕事にありつきます。

これで彼は今まで馬鹿にしてきた人たちに復讐するこができるようになりました。権力を振りかざして不正に多く取り立てることができたのです。しかし、ふたを開けてみれば、今は「あいつは罪人だ」と同国民からののしられ、手元にあるお金以外、何も自分にはないことに気づくのです。彼の孤独はより一層ましていくのでした。

取税人マタイ

そのとき、同じ取税人仲間であったマタイがザアカイのところに来て言いました。

「俺、もう取税人やめるわ。イエス様に出会ったんだ。この方は罪人呼ばわりされて当然の俺を受け入れて愛してくださり、その罪すらをも赦してくださったんだ。俺はもう罪に罪を重ねるようなことはしない。俺はこのお方にしたがっていく。」

ザアカイは衝撃を受けたと同時にマタイの喜びに満ちた顔を見て、自分も変わりたいと思いました。そうして、近々イエス様がこの街に来られるという噂を聞きました。彼は自分も「イエス様に出会って変わりたい」という思いで街に行きます。

ザアカイよ

しかし、イエス様の周りには多くの取り巻き、さらにイエス様が歩いてくる道は群衆で埋め尽くされていました。ザアカイは何とかしてイエス様を見ようとしますが、背が小さくて見えません。すると群衆の一人が「おい!罪人のチビザアカイの来るところじゃねえよ!」と蹴とばしました。

しかし、ザアカイはそれであきらめませんでした。近くにあった木に登って遠くにいるイエス様を見たのです。「あぁ、あれがイエス様か。会ってみたいな。でも、こんな俺なんか。」と。

イエス様はザアカイがいた木の前を通り過ぎようとされた時、木の上の見上げてこのように語られました。

「ザアカイよ。降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしいる。」

生涯をかけた主の証人

きっと、ザアカイは飛びあがりたくなるほど嬉しかったことでしょう。なぜならイエス様は自分の名前をご存じだったからです。ザアカイが生まれる前からイエス様はザアカイを愛してくださっていたのです。そしてイエス様は彼に語りかけ、彼の罪をゆるし彼を愛していることを伝えました。それに対する彼の応答はこうです。

「私は財産の半分を貧しい人に施します。また不正に取り立て人たちには4倍にして返します。」

これは彼の献身だったと思います。4倍とは生涯働いてそれを自分のものにしないという金額だと思います。有り余っている余裕の中からすると言ったのではなくて、生涯をかけて主の証人となりたいという決意だったのでしょう。

その後の彼の人生はきっと人々を愛し愛される生涯だったと思います。

イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。 10人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。
ルカの福音書19:9

この話はルカの福音書の19:1-10に書かれています。

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