年間通読
2024年は久しぶりに年間通読をすることができました。1日に旧約3章、新約1章を読めば1年で新旧約聖書66巻全巻を読むことができます。僕は勤務形態が在宅とリモートのハイブリッドなので、在宅時は紙の聖書、通勤時は聖書アプリで通読をしました。
と書きつつも、実際ここ数年は通読を断念することが多かったです。それは自分勝手に言い訳をしていたからです。例えば、「今は決まった書簡を集中的に読む時期にしたい」とか「暗唱聖句に力を入れたい」と言ったものでした。
強制的に旧約聖書も読む
確かに決まった箇所を精読、黙想、暗唱することの意味は大きいとおもいます。しかし、やはり信仰のバランスを考えた場合1年で通読が最も適していると思わされました。なぜなら、僕はすぐに安きに流れてしまうからです。
通読という枠組みがなければ、つい読みやすい、読みたい、といった自身の主観によって選択してしまいます。少なくとも僕の場合は強制的に旧約聖書も読まなければ新約の恵みに過度に依存して甘えた信仰に陥ってしまいます。
適度な緊張感
旧約時代の律法の厳しさ、神が神殿建設や礼拝における規定で妥協のない要求をしたこと、また預言書における神の裁きなど、いずれも目を離すことはできません。それは時に恐怖を与えるものかもしれませんが、神の愛に根差した信仰生活を送っていれば、それは正しい畏れを心に抱かせます。
言い換えれば、適度な緊張感、あぐらをかくのをやめて襟を正したくなる、あるいは常在戦場の意識の芽生えなどの信仰面においてよい影響を与えてくれます。
3年で1回なら8回だけ
何よりも人生で聖書を通読できる回数は限られています。僕は38歳で70歳で死ぬとしたら年間通読をしたとしても32回しか聖書通読ができません。もしそれが2年で1回の通読なら16回、3年で1回なら8回だけです。それはクリスマスも同じです。この地上での生活でクリスマスをお祝いできるのはあと32回だけなのです。
他はどうでしょう。僕は昨年も誰一人として救いに導くことができませんでした。これは明確に自覚すべき厳然たる事実です。このまままた1年が過ぎていけば僕はこの生涯で直接的な福音宣教の働き
で実を結ぶことなく終わってしまいます。
今年はそういった危機感をもって祈っています。