1363_人は大いなる勘違いをする揺れる葦のような存在

ミニマリストの生活

僕は独身時代一時期ミニマリストの生活をしていました。持つものは最低限で、掃除機も冷蔵庫も炊飯器も洗濯機も布団もない生活をしていました。持たない生活はシンプルで大切なことに集中させ精神を研ぎ澄まさせます。しかし、思うところがありました。それは非常に不便だということです。

食材を買っても冷蔵庫がないからその日に消費しないといけない。ご飯はメスティンで炊かないといけないから他の料理が中断される。などの多くの不便がありました。そして、結局結婚を境にミニマリストの生活はやめてしまいました。

ゆれがある

僕はこの時、どれだけストイックな生活をしていてもどうしても一貫性に欠けてしまうことに苦悩しました。また、たとえ自分の目指すところを達成できているように思えても、実際は自分望んだ生き方でなくなっている可能性があるということも思いました。

このように人は自分ではできていると思っていても、実際は完全にはできていないことが多いと思います。

たとえばインドにはビーガンやベジタリアンがいます。みんながみんなストイックなわけではなく、その中でも肉だけ食べない人から肉も卵も食べない人、あるいはある曜日だけは食べてもいい日があるなど様々だそうです。一言にビーガンと言っても、ゆれがあるのです。

状況や環境が変わると

人の生き方の揺れには他にもあります。以前、僕は心の中では大量生産、大量消費社会は神が人間に与えてくださった資源を無駄に使っているからよくないと思っていました。また大気汚染、CO2排出に加担する車は絶対に持たないと思っていました。

しかし、どうでしょう。僕の実行動はプラスチック容器のお惣菜を買うこともあるし、プラスチックのストローを使ったりもします。挙句の果てに結婚出産を境に結局車まで持つようになってしまいました。もちろん、これは意志薄弱な僕だけかもしれません。しかし、人はもしかしたら状況や環境が変わると簡単に変わってしまうものなのかもしれません。

決して揺るがないお方が与えてくださる神からの義

信仰も同じだと思います。人は状況や環境が変わると簡単に変わってしまう可能性があります。またたとえ、自分は相対的に、以前と比較してまともに生きれていると思ったとしても、完全に義なる生き方は決してできません。

人は大いなる勘違いをする揺れる葦のような存在なのかもしれません。だからこそ、決して揺るがないお方が与えてくださる神からの義が必要なのだと思いました。

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