1315_最悪な1日のスタートをきった日

僕の善には一貫性がない

今日は自分の失敗を書こうと思います。今日書くことに関して、ある人は僕が偽善者だと思うかもしれませんが、それは正しいです。なぜなら僕は自分が偽善者であることを知っているからです。その理由として、僕の善には一貫性がなく、状況によって変わってしまう非常に脆いものだからです。

ひとたび、状況が変われば言っていることとやっていることが違ってしまうからです。たとえ、今は高尚なことを言ったり書けたりしていても、たとえば、自分の命と引き換えにそれができるか?という状況になったら僕は間違いなく偽善者に陥ってしまうからです。

手伝ったら出勤が遅れるかもしれない

今日書こうと思っている失敗は駅で白杖を持っている方を見た時のことでした。最初白杖を持っている方を見た時に「何かお手伝いできることはありますか?」と声をかけようとしました。しかし、通勤の時間だったので流れに流されてタイミングを逃してしまったのです。

それから人流を抜けてその方が来るのを待とうと思ったのですが、こんな気持ちがやってきました。

「もしかしたら、手伝わなくても大丈夫な人かもしれない。」
「手伝ったら出勤が遅れるかもしれない。」

そして僕はそのまま改札口を出てしまいました。それからエスカレーターに乗りましたが、間違いだったと後悔してしまいました。今日は朝から最悪な一日だと思いました。

善を行う機会があるなら

そして、この御言がやってきました。

善を行う機会があるなら、それを差し控えてはならない。
箴言 3:27

また、先日ブラインドサッカー選手の交流会で全盲の選手がおっしゃっていた言葉も思い出されました。その方はこのようにおっしゃっていました。

「知っている道を歩くのは大丈夫なんですが、知らない道を歩くのはとても怖い。」

例えば普段通勤などで使ってる道や駅を歩くのは慣れているので不安はないそうです。しかし、いざ、普段いかないところに出かけることになったりすると恐れがやってくるそうです。

恐れがあるのかもしれない

僕の家の周辺にはライトハウスのような施設があり、僕は日常的に白杖を持って歩いている方を見ています。そして、ぱっと見たところ、その方たちは何の問題もなく歩いているから大丈夫だろうと思い込んでいるところがありました。

もちろん、その方が日常的に使っている道を歩いておられるのであればお手伝いする必要はないかもしれません。しかし、そんなことは聞かないとわからないのです。

だから、これからは「きっと大丈夫だろう」となすべき善をしないように自分を説得するのではなくて、「困っているかもしれない。恐れがあるのかもしれない」と思って声をかけようと思いました。

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