1297_ユースの世代は鋭い感覚をもって大人の信仰が本物か見抜く

教団のユースの集まり

先日の土曜日は教団のユースの集まりに参加してきました。といっても僕はとうの昔にユースから除外されていますので、今回は教会の子どもたちを連れて一緒に参加しました。その集まりには二つの教区からユースが集まっており、ざっと数えただけでも40名くらいいたように見えました。

ただ、教会一か所あたりで平均化すると3名~5名くらいになるんじゃないかと思います。昔と比べたら多くないかもしれませんが、少子高齢化が進んでいることを考えると、この数は少なくないと思いました。

何歳になっても出たがりの面倒なイタイ人

僕は37歳なので、ユースのメンバーとは20歳以上年が離れています。また僕がこの教団に来たのは4年ほど前になのでほとんど誰も知りません。元来知らない人たちの集団の中に入っていくのは苦手だったので、いつもどおり静観しました。

静観した理由はほかにもあります。それは誰でも「自分はいつまでも若い」と思いがちだから注意しないといけないと思ったからです。もちろん、ユースの子たちをフォローという意味での関わりは必要だと思います。しかし、厄介なのは何歳になっても出たがりの面倒なイタイ人がどこにでもいるものだからです。僕もそうなる危険性があるので自粛すべきと思いました。

外面も内面も全く違う

若い頃と比較すると確実に身体は劣化するし感受性も硬化します。特に感受性の硬化は著しいです。悲しいかな昔みたいに音楽を聴いて体が激しく震えるほどの感動をしたり、本を読んで心が燃やされたり、絵画を見て1時間も立ち尽くすというような体験はほとんどなくなってしまいました。

このように僕たちおっさんはユースと同じ人間の形だけしていますが、外面も内面も全く違います。

何より育ってきたカルチャーや文脈などが彼ら彼女とは全く違います。僕はSNSの無かった高校生活を送りましたが、今のユースはTikTok世代です。ある人たちは現在地を知り合いに常時共有したりするような世代です。僕からしたら考えられません。ほっといてくれと思ってしまいます。

鋭い感覚をもって見抜く

しかし、そうは言っても、ユースに対する福音宣教の責任の半分は上の世代にあります。残りの半分はユース世代自身たちの責任です。上の世代のクリスチャン生活が本物であるかどうかをユースの世代は鋭い感覚をもって見抜きます。言葉にして言わないまでも、「この人は口だけだな」とか「この人は自分のために生きている」とかばれてしまうものです。

ユースのために祈ることはもちろんですが、生き方として自分はどうなのか?ということを再点検させられる時となりました。

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