疑う信仰
僕はこれまで自分の矛盾した信仰生活や罪に打ち勝つ力のない信仰生活の中でいつもふらふらしながら生きてきました。ヤコブの手紙に書かれている通りの生き方をしていた時期が非常に長かったです。
ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。ヤコブ 1:6-8
聖書に明確に書かれているとおり、「どうせ無理だ」とか「どうせ変わらない」とか疑っていたのです。だから、そのすべての行動に安定がなかったのです。
少ししか祈らなければ少ししか力がない
僕が救われたのちもなお古い自分を脱ごうとして葛藤するする中で、イエス様の憐れみと恵みを経験し続けることができたのは、祈りたい、いや祈らざるを得ないという心の飢え乾きがあったからだと思います。中国人のクリスチャンはよくこのように言っていました。
「少ししか祈らなければ少ししか力がない」
この非常にシンプルなことが、信仰生活を決するのだと思います。
肉の内なる声をガン無視する
しかし、肉の自分は祈ることを嫌うことを知っています。古い自分は「祈っても無駄。何になる?何が変わった?」と僕を告発してきます。まずは、その肉の内なる声をガン無視するところから始まります。
そのあとは具体的に祈る時間と場所が必要になります。通勤時に祈り心をもって電車に乗ったり、歩いたりすることはできますが、やはり集中力にかけますし、ゾーンに入ることはなかなか難しい場合がおおいです。だから、祈ろうと思ったらまずは場所と時間の確保が最優先事項になります。
全裸で風呂場に跪いて
きっとクリスチャンにはそれぞれ自分だけの祈りの場所があると思います。教会に行って祈る人もいれば家のどこかで祈る人もいると思います。僕自身は部屋で祈ることもありますが、最近はもっぱらお風呂で冷水シャワーを浴びてそのまま全裸で風呂場に跪いて祈っています。
なぜなら、お風呂は個室であり、一人になる場所で、かつ必ず毎日入ります。この点を最大利用するのです。特に夏場は全裸でお風呂場にとどまっても寒くもないし苦痛でもないのでかなりいいのではないかと思っています。