信仰は自分のものか?
所属している教団の機関紙に「救いも信仰もすべて主から与えられたもの」と記載されていました。確かにそのとおりだと思いました。もし、「自分の信仰」というマインドがあると、きっとその人は自分の信仰を誇るようになるでしょう。その時点で恵みからもれてしまうので、恐ろしいことです。
実際、すべては神様の恵みです。「行いによって義とされないこと」や「与えられた信仰によって生きることができること」はすべて神の恵みです。
自由意思は?
ただ一つ疑問がわきます。では、人間の自由意思や意志はどう作用するのでしょうか。僕の理解では、信仰とはあらゆる局面において「イエス・キリストを選択し続ける」ことです。順境の時も逆境の時も、谷にいる時も頂きにいる時もイエス様を選択し続けることです。
そこに自由意思や意志が必要になります。じゃあ、人間はその自由意思や意志を主の前に誇ることができるのでしょうか。断じて誇ることはできません。なぜなら、主の恵みによってイエス・キリストを選択し続けることができているからです。
選択できることも恵み
信仰がなければ祈りができないように、祈りとは信仰そのものかもしれません。なぜなら、日々の生活で、主の恵みによってイエス様を選択し続けることができるように祈るからです。
いつもこのように祈っています。
「今日もあなたの恵みによって歩むことができますように。」
「今日もあなたの恵みによって生きることができますように。」
「あなたを僕自身の真ん中にお迎えします。」
「あなたを家族の真ん中にお迎えします。」
すべて恵み
すべては神の恵みです。こう書くと自己啓発みたいに見えてしまいますが、今ある命、与えられている仕事、家族、友人、知人。与えられている環境、寝る布団が与えられていること、食べる物があること。太陽があり空気があること。すべて神様が与えてくださった恵みです。
人間は恐れや不平不満を持ちやすい性質があります。だからこそ、主イエス様を選択して、このすべての恵みからもれないように気をつけたいと思いました。
油断することなく、あなたの心を守れ、
命の泉は、これから流れ出るからである。
箴言4:23