勝利の人生
クリスチャンが勝利の人生を送り続けるのは、とても困難ですが、とても容易でもあります。困難というのは人間にとって神様を選び続けることが簡単ではないからです。容易というのは、神様を選び続けることができれば必ず勝利できるからです。
洗礼を受けてクリスチャンになることは、つまり罪とがが十字架の上で赦されたことを意味します。それは絶対に変わりません。しかし、この世で生きる以上、クリスチャンと言われる人もこの世との接点があり、その接点から影響を受け続けます。その影響の力はすべての人間が知るところで、主を選び続ける、主にとどまり続ける選択をしないと瞬く間に負けて染まってしまうのです。
勝利する秘訣
魚が生きているうちは塩分濃度の濃い海の中を泳いでいても、魚自体は塩辛くなりません。しかし、魚が死んでしまい、そのうちに命がなくなってしまうならば、瞬く間に塩分濃度の濃い海水が魚の中にしみ込んでいき、塩辛くなってしまいます。
これと同じように、もし人間の心の中にキリストが宿り続けるのであれば、この世の影響を受けることはありません。しかし、心の中からキリストを失ってしまうなら、同じようにこの世の影響を受けて勝利できなくなってしまいます。
前提条件
僕自身の肉的な性質は主に頼ろうとするのを頑なに拒否しようとするのを知っています。自分の間違い(罪やとが)を認めたくないという気持ちがあるのを知っています。自分は悪くない、自分はましだ、自分は白だと、自己弁護、自己主張をしたくなるのを知っています。ちょうど聖書に出てくる当時の特権階級で既得権益をもっていたパリサイ人のように。
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
ルカ18:11-12
しかし、自分が白か黒か、良いか悪いか、ましかどうかを決めるのは神様であり、その基準は聖書にあります。
容易ではない真の悔い改め
神様の目に留まったのは先ほどのパリサイ人の祈りではなく、自分が罪人であることを自任している者の祈りでした。自分が悪く、黒で、ましでもないと認識していた者です。この祈りは容易に見えますが、決して簡単ではありません。なぜなら、人間には自分の間違えを認めたくない性質があるからです。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
ルカ18:13-14
この取税人のように神の前に罪を悔い改めれば罪は必ず赦されます。だったら日々好きなように罪を犯して生きて、毎日悔い改めれる生活のほうがいいのでしょうか。僕自身は経験上、そういう考えからは真の悔い改めは絶対できないと思い知らされています。
真の悔い改めから180度方向が変わり、そこから主により頼んで勝利する人生が始まります。必要な悔い改めに導かれて、主により頼み続けられるように日々祈っています。