主の実際的な助け
キャパがおちょこ並なのでちょっとしたことでもイライラしまったり、テンパったりしてしまいます。ただ、その時々において、様々な場面において、主の助けがあり、普段の自分なら確実にオーバーフローしているであろう局面で、冷静かつ沈着、寛容な態度で向き合えることがあります。そういう時に、確実に主が僕の心に介入し働いてくださっていることがわかります。
もちろん徳や品性の成長を絶対に諦めてはいませんが、もとから人格的に欠陥のある人間なので、修行やどうのこうのでどうにかできるレベルでないことはわかっています。しかし、こんなに欠陥だらけの人間なので、どうかお助けくださいと自分の弱さを認めて、主に祈る時に、主はこれまで何度も実際的に助けてくださいました。本当に「もし、あの時、主が助けてくださらなかったならば間違った選択をしていた。」というのは無数にあります。
品性や徳のアップデート
ある人たちは修行によって品性や徳をアップデートし続けられるかもしれません。滝に打たれたり、厳しい修行に耐えることで品性が練られるのかもしれません。聖書に登場するパウロはそういった厳格なユダヤ教のもとで生活していました。彼はこのように言っています。
〜わたしは、わたしたちの宗教の最も厳格な派にしたがって、パリサイ人としての生活をしていたのです。
使徒行伝26:5
しかし、彼がそのような生活で感じていたことは神の律法を守れている満足感や自尊心ではなく、このようなものでした。
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
ローマ7:15
クリスチャンの品性
もし、ある人は「クリスチャンなんかよりもいい人はいっぱいいるし、クリスチャンであっても、クリスチャンらしく生活している人なんて見たことがない」とおっしゃるかもしれません。それは僕に語られている言葉であり、悔い改めるほかありません。
もし、本当にクリスチャンが神様に栄光を帰す生き方をしたいのであれば、日々自分の十字架を負って悔い改めて主が共にいてくださる選択を時々刻々とし続けないといけないとここ数日強く感じています。
もし、この欠陥だらけの僕を造り変えて、陶器師が粘土を潰して意のままに造り直すようにしてくださるなら、僕はこの方に身を捧げて造り変え続けていただきたいという望みを抱いています。この望みがあることが僕にとっての希望であり、日々生きる活力にもなっています。