村田選手の言葉
先日、世紀の一戦と言われていたゲンナジー・ゴロフキン選手と村田諒太選手との試合がありました。前半は村田選手が前に出るボクシングでボディも効かせていたのですが、後半よりゴロフキン選手が優勢になり、9ラウンドKOでゴロフキン選手が勝ちました。
実は、村田選手は息子さんに宛てた手紙で、新約聖書のイエス様のタラントのたとえ話を書いており、キリスト教系メディアにも取り上げられたりしています。村田選手がクリスチャンがどうか知りませんが、いろいろな場面で、聖書の言葉を引用されているので、影響を受けておられる方かもしれません。
そんな村田選手の言葉一つ一つがボクシング並にパンチ力のあるものだったので、今日はNHKニュースにあった村田選手への独占インタビューから村田選手の言葉を引用したいと思います。
人が注目する桜の花ではなく幹に目を向ける
「人生、花ばかり咲かせようと思ってこっち(幹)を見ていなかった。試合は花。練習で幹が作られている。花が咲かなくなった、注目されなくなったときに、この幹が、人間としてしっかりしているかどうかなんでしょうね。でないと永遠にボクシングをしなければ輝けない人間になってしまう」
仕事であれ、家庭のことであれ、学校のことであれ、必要とされるのは技術であったり、学力であったり、家事をこなす要領さだったり、目の前の問題を解決するためのことが多いです。確かに、目の前の課題を解決したり、誰かの役に立ったり、社会に貢献できることは大きな充実感をすぐに与えてくれます。
僕はそういったことに応えることは求めているのに、一方で、クリスチャンとして主が必要としていることや期待されていることを求めていないのではないかと思いました。ともすると、主のためにすることは永遠の魂のことで、すぐに結果が現れないことがあるかもしれません。
しかし、主のためにしたことだけが残るのであれば、たとえ、他の多くの人の役にはたっていなくても、称賛されなくても、割にあわないと思われたとしても、たった一人の魂の救いのために全力を注げることこそが、主に喜ばれることなんだと気付かされました。
怖いけど進んでいく
「恐怖がなくなることが大事かというと、別にそうじゃない。恐怖のままでいいんだと思いました。だって怖くないわけないじゃないですか。結局、勇気は恐怖とともにあると思うんです。だから怖くてもいい。怖いけど進むんだ。最終的には、そういう気持ちになれたので。それが悪いとは思わない、それでいいんです。〜以下略」
恐怖の中にあって、できればそれを避けたい。しかし、天の父の御心ならば。と祈ったのは十字架にかけられる前のイエス・キリストでした。神であり、人であったイエス様は、人間が感じる恐怖を体験されました。そして、それでも、十字架の道を歩んでいかれました。
人類最大の慰めは、イエス様が僕たちが感じる恐怖以上の恐怖を体験され、その辛さをわかってくださっていること。そして、僕たちが感じるその恐怖の中で共にいてくださるという慰めを与えてくださることだと思います。
今日が良くても明日どうなるかわからないような時代です。しかし、明日どれだけの恐怖が襲ってこようとも主の慰めと平安を奪えるものはないので、今日も平安の心で過ごすことができるのです。
「明日のことを思い煩うな。 明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
マタイ6章34節
■そして、そのイエス様はその恐怖の中にあって共にいてくださる