個人の祈りの時間はなぜブラックボックス化しているのか? | ようやく出た一つの答え

個人の祈りの時間

このブログではずっとこのようなことを書いてきました。それは「個人の祈りの時間はブラックボックス化している」ということです。祈りではなくデボーションであれば参考となる流れなどはあります。たとえば、祈りと賛美から始め、テキストに記載されている聖書箇所を開いて教えられたことを書きだす。最後は祈りで終わるというものです。

ただ僕はなぜか個人的な祈りに対して強烈な好奇心がありました。なぜなら、これら言葉にあるようにキリスト教信仰の土台は祈りにあると考えているからです。

「少ししか祈らなければ少ししか力がない」
「祈りとは神様との会話」

忙しく誘惑の多い現代

たとえば、聖書にもいくつか参考があります。イエス様は朝早くに一人寂しいところに行かれていました。またダニエルは1日に3度必ず主に祈ることをしていました。これらは聖書が教えている個人的な祈りの時間のヒントになります。

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しかし、僕はいわゆる現在牧師先生や宣教師として生きている人たちが、この忙しく誘惑の多い現代においてどのような祈りの生活をしているのかがずっと気になっていました。もちろん、教会で祈る姿を見ることはできます。しかし、平日個人的にいったいどのくらい祈り、どのようなスタイルでしているのかを知りたいと思っていたのです。

主との交わりは非常に多様

しかし、僕はようやく「なぜそれが語られないか?」を知ることができました。まず第一に、もし講壇から「これが個人的な祈りだ」と具体的に語ってしまった場合、信徒はその通りに行うしかなくなってしまいます。ようは型にはまってしまう危険性があるのです。しかし、僕自身も経験してきたことですが、主との交わりは非常に多様です。

たとえば、家族を例にあげてみます。1日の会話だけでも全く同じ内容のことを話すという日は1日たりとてありません。河和の内容は必ず毎日違います。また、家にいることもあれば、時には出かけてレジャーを楽しんだり、教会に一緒に行ったり、買い物に行ったりします。

僕は主との交わりも同じだと思いました。つまり、全く同じ祈りの時間というのは存在しないのです。上述したように場所も方法も時間も変わるのは当然です。

わずかな時間にとどまらない

第二に僕自身の状況も刻々と変化します。僕が高慢な時、悲しんでいる時、つらい時、起こっている時、それぞれの主の導き方は全く異なります。たとえば、高慢な時は誰かを使って僕を戒める方法を取られるかもしれません。悲しんでいる時は静かに祈りの中で慰めてくださるかもしれません。

つまり、祈り、主との交わりとは「ここからここまで」というわずかな時間にとどまらないということです。「個人の祈りの時間はブラックボックス化している」というようりも「個人の祈りの時間はブラックボックス化にならざるを得ない」と思うようになりました。

書いているうちに「祈り」と「主との交わり」がごっちゃになってしまい、突っ込みどころはあると思うのですが、おおむね間違ってはいないのではないかと思っています。

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