割に合わない
先日、ある海外の牧師先生が「世界において牧会ほど難しい仕事はない」と言っていました。その教会は数万人の信徒を擁する、いわゆるメガチャーチです。その人が牧会は容易ではないと言っているのに僕は驚きを隠せませんでした。確かに自分の周りの牧師先生を見ていても「牧会は割に合わないのだろう」と思うことがあります。
もちろんそれはこの地上において割に合わないということです。牧師先生たちは一般信徒が決して味わうことができない大きな報いが点ではあるからです。
ざるで水をすくう
「牧会が割に合わない」はいくつかあると思います。たとえば、いくら時間と情熱をかけて求道者を導いても、人を救うのではなく、ざるで水をすくうようなことになってしまう。また、どれだけ手塩にかけて人を育てても教会から離れていく。それ以外にも無慈悲な信徒による「牧師はこういうものだ」という扱いから、必要以上の対応を求められることもあると思います。
そういうのを見ていれば、確かに「牧会が割に合わない」や「世界において牧会ほど難しい仕事はない」というのは的を得た意見だと思わされます。
霊的な働きだから
しかし、それはあくまでも事象につぎません。なぜこんなにも牧会は難しいのでしょうか?それは霊的な働きだからです。基本的に人は肉で生きています。救われるまでは霊が死んでいます。肉で生きている人に対し、死んでいる霊に対して霊のことをわからせるというのは容易なことではありません。
この働きの難しさに関してイエス様がこのように言っています。
マルコによる福音書 4:12
それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」。
マタイによる福音書 22:14
招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。
聞く人の肉が強ければ何も響いてこない
どれだけ牧師先生が優れていても、聖霊の働きが極めて強かったとしても、結局聞く人の肉が強ければ何も響いてこないのです。導く中で時に求道者の肉が弱まり霊が生きてくることもあるでしょう。しかし、確信に至らない場合は、この地上の引力にひかれてあっという間に肉が活性化されてしまいます。
それは既存のクリスチャンも同じです。もし肉を無力化して霊が活性し続けなければ、バックスライドしてしまいます。たとえ、教会には来ていたとしても生けるしかばねになる可能性すらあります。僕は自分自身が信徒の立場から牧会は難しいという要素にならないように気を付けたいと思いました。
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