1949_なぜ信仰生活に努力が必要か | すべては動機が重要

自分が怠惰

ここ数日、僕はずっと「努力」について書いてきています。なぜ僕はこんなにも努力を強調するのでしょうか。それは決して啓蒙したくて誰かに対して書いているのではありません。もちろん自分の蟻ほどの努力を誰かに誇りたくて書いているわけでもありません。

ただ自分自身に対して書いているのです。なぜなら、僕は自分が怠惰で、安きに流れやすく、努力からほど遠い人間であることをしっているからです。

主への愛のゆえ

つまり、「信仰生活には努力が必要だ」と自分に鞭を打たないと僕は安きに流れてしまうのです。しかし、ここで強調させてください。僕は決して努力が目的で努力しているわけではありません。僕が努力する動機は主への愛のゆえです。

「主の愛に応えたい、主がしてくださったことに対して自分の人生で応えたい」という内なる動機から「奮闘したい」、「努力したい」と思っているのです。もし、そういった内なる動機がなければ僕の努力はまさにただの修行であり、律法主義です。

主は見てくださっている

もし、僕が信仰のために「努力」することを知っていなかったら、暗唱聖句をすることもないでしょう。また、自分の娯楽の時間の代わりに祈ることもないでしょう。おいしいお昼ごはんの代わりに断食祈祷をすることもないでしょう。すべては主のために役に立ちたいと思うからです。

そして、ここが重要なのですが、驚くべきことに主は僕のこのなけなしの「努力」を見てくださっているということです。主がしてくださったことに比べたら本当に大した頑張りでもなんでもありません。しかし、主は僕の心とそれに基づく行動を見てくださるのです。

あなたのほかにわたしの幸はない

自分の時間を横において主の前に跪いて祈る時、僕は主との深い愛の中で至福を感じます。この体験に対して、この御言を引用するのはおこがましいかもしれませんが、そのように思うのです。

詩篇 16:2
わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。

詩篇 142:5
主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、「あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。

僕は若い頃、犠牲や努力の大切さをあまり理解していませんでした。それは救いはただで恵みで与えられるから信仰生活も同じ姿勢で歩めばいいと思っていたからです。しかし、本当に救いに与っている人はそんなことを考えないということも今はわかります。

主が与えてくださった魂の救いは人にエネルギーを注ぎこみ、そして主のために何かをする力を溢れるばかりにくださると信じています。

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