1913_末端の信徒が適当に生きてその宗派全体の印象を汚している | 偏見をなくす

無知で教養もない

以前、僕はカトリックに対して抱いていた多くの偏見を主の前に悔い改めたと書きました。

僕は無知で教養もなく短絡的に考える人間です。だから、知ろうともせずにカトリックと言えばマリア聖母の崇拝、ロザリオなどの偶像、十字架にかけられたままのイエス様、たばこを吸う人もお酒を飲む人もいる、堕落していると思っていたのです。もしカトリックの方でこれを読んで不快に思われたら申し訳ございません。

末端の信徒が適当に生き方

しかし、それは一部を切り取っただけ、また一部の知っている信徒を見てそう判断しただけにすぎません。これは福音派であれ、ペンテコステ派であれ同じです。宗派全体としてはきよめを重んじストイックに生きていたとしても、末端の信徒が適当に生きてその宗派全体の印象を汚しているということは多くあります。

なぜなら、僕自身がそのように生きてきたと思っているからです。また今もなお恥ずかしいながら、イエス様や聖書の教えに泥を塗るような生き方をしていないとも言い切れません。ペンテコステ派の多くの誤解は僕みたいな末端信徒のせいだとさえ思っています。

生き方に妥協がない

僕はカトリックの部分的なところや一部の信徒しか見ていなかったのです。しかし、カトリックの聖人と言われる人の書籍を読むようになってから、その見方がだいぶ変わりました。それは、彼らの生き方に妥協がなかったからです。特に霊的なことに関して、巧みに言語化する側面においては一歩進んでいるとさえ思ったのです。

超自然的なことを強調する宗派と言えば、今ではペンテコステ派が代表格かもしれません。しかし、500年ほど前のスペインなどでは既に神秘主義というジャンルでカトリックが霊的な主との交わり、主との一体化、完徳の道を示し、言語化し教えとして残していたのでした。

余談になりますが、カリスマ派といえばペンテコステ派の派生ですが、カトリックにもカリスマがあることにも驚きました。

どの観想修道会でも1日に7回の教会の祈り(時課の典礼)があり、それによって一日全体を、主に心をあげる聖なる時としていますが、そこに、各修道会のカリスマによっていろいろな特色が加わります。カルメルの特徴は、1日に2回、朝夕1時間ずつ、ご聖体の前で行う「念祷」です。沈黙のうちに行われる、主イエスとの間の親密な交わりである念祷は、私たちカルメリットにとって生活の基盤となる大切な祈りです。黙想(retraite)が、聖書を読んだり、良いお話を聞いたりして、主についての考えや思いを巡らすことであるならば、念祷(contemplation)は、単純に主と共に留まることと言えるでしょう。

引用元:京都女子カルメル会について

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)