1869_クリスチャンでも変わらない非常な現実の原因 | 求めるか否か

願っていなければ変わることはない

クリスチャンはすべからずイエス様からの大宣教命令を受けており溢れるばかりの愛を動機として福音宣教をします。しかし、その過程で「キリストの似姿に変えられていく」という恵みにも与ることができます。しかし、このブログでは何度も書いてきているように、洗礼を受ければすべての人がそうなるというわけではありません。

不都合な真実のように思えますが、たとえ、教会生活を何十年と送っていても信仰生活何十年であっても、あるいは、献身生活を何十年と送っていたとしても「主にあって変えられたい」と願っていなければ変わることはありません。

霊のことは思いもしない

十字架の救いは信じる者にすべてに与えられます。しかし、主にあって変えられることや主から与えられる賜物などは求めないといけないのです。これは聖書の原則です。

マタイによる福音書 7:7
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

また、もしクリスチャンになってからも日常の引力に引かれるがまま古い自分に生きるならば、間違いなく「主にあって変えられたい」という思いすら起きてこないでしょう。なぜなら、聖書にはこのように書かれているからです。

ローマ人への手紙 8:5
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。

日常の引力に引っ張られるがまま、流されるがままの人は肉のことを思うので、霊のことは思いもしないのです。

低いラインに線を引いて

なぜこんなことを書くのかというと、それは僕自身が体験してきたことだからです。確かに救いは求めるものに平等に与えられます。しかし、それはあくまでもスタートにすぎません。もし、主の愛の中を生きること、主の思いを知ること、主にとどまること、聖霊に満たされることを求めないのならば、本当にいつまでたっても赤ちゃんクリすチャンのままになってしまいます。

僕は情けないながら、長らくそのような状態にいました。自分の個性には問題があることはわかっていても、その気質や資質は僕の弱さゆえに主が働かれるという甘えがあったのです。そうして、次第に「クリスチャンでだいたいこんなもんだよね」と非常に低いラインに線を引いてその線くらいであればいいかと思ってしまっていたのです。

霊なる主の働き

しかし、聖書を読めば自分の姿が明らかになります。自分が間違った低いラインに生きていることが顕わになります。それが第一歩です。現状とあるべき姿のギャップに絶望するのです。しかし、それはただの霊的な事実にすぎません。次の一歩は主からの愛を動機とした変わりたいという思いが必要になります。それは霊なる主の働きです。

コリント人への第二の手紙 3:18
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

明日に続けます。

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