なぜ異言の祈りは直通なのか
以前僕は異言の祈りは神様直通の祈りだと書いたことがあります。下記記事で書いたようにほとんど0秒でイエス様とつながれるのが異言の祈りだと思っています。そしてそれ日常生活のあらゆるところで体験しています。
じゃあ、なぜ異言の祈りは直通なのでしょうか。なぜ、異言の祈りは神様との深い交わりへと導くのでしょうか。これは僕の勝手な持論であり、神学的根拠もありませんが、思っていることを書こうと思います。
あの人狂っている
まず異言の祈りは理性を否定しなければんりません。理性で考えれば、この現代において異言ほど異質なものはないのではないでしょうか。新興宗教やニューエイジなどが世に出てきてから、スピリチュアルな現象に対して人は以前よりも拒否反応を示すようになりました。
「あの人おかしい」とか「あの人狂っている」とか「異端だ!」などです。これは一面正しい反応です。理性で考えればおかしいのです。しかし、神様の方法はこれだったということを認めなければなりません。2000年前、ペンテコステの日に聖霊が注がれたあの日、起こったことはまさに異言だったのです。
神様への降参
聖書は理性で読むものでしょうか。理性で読んだら神話に成り下がってしまいます。聖書は霊で読まなければありません。それと同じように異言に対しても霊で受け入れる必要があると思っています。理性も大切ですが、もっと大切なのは聖霊です。
よって、異言の祈りをする過程で理性は否定されなければなりません。これは僕は「神様への降参」を意味すると思っています。つまり、異言とは神様に降参していないとできない祈りだと思うのです。へりくだり、悔い改めなども密接にかかわっています。
異言の祈りのおかげ
僕は日々、自分に限界を感じて生きています。自分の性格や資質や信仰を見るならば、本当にやる気がなくなってしまいます。しかし、そこから僕を救って立ち上がらせ、頭をもたげ、前方をしっかり見てイエス様から目を離さないようにいられるのは、まさに異言の祈りのおかげだと思っているのです。
その理由は最初にも書きました。異言の祈りは神様直通の祈りだからです。神様との深い交わりに入らせて頂ける祈りだからです。













