狭い門
昨日は律法主義から解放されたことを前提として、恵みに留まり続けるためにはあらゆる努力をするということを書きました。なぜ、そこまで鼻息荒くこういったことを書くのでしょうか。それは恵みに与ることは簡単ですが、留まり続けることは容易ではないと認識しているからです。
キリストの恵みを受けることは本当に簡単です。これまでも多くの人がキリストの恵みに与ってきたことでしょう。しかし、多くの人は教会から離れていきました。それは、キリストの恵みに留まり続けることは決して容易なことではないからです。文字通り、狭い門なのです。
あらゆる方向を自分に向けること
それは言い換えれば、人間が恵みに留まろうしない傾向があるとも言えると思います。自分でできる、自分でやりたい、自分の成果だ、自分が頑張ったから、自分の時間だ、自分、自分、自分で自分が大切なのです。そこにキリストを受け入れる余地はないのです。
僕は古い自分の性質にそうったものがあることを認めます。その性質とは、あらゆる方向を自分に向けることです。そしてそれは非常に気持ちがいいからです。褒められると嬉しいでしょう。評価されると嬉しいでしょう。与えるよりももらった方が嬉しいでしょう。自分の方向に向いてくることはすべて気持ちがいいのです。
もっともっと自分のほうに!!
だから僕も含めて人はわざわざその方向をキリストの方に変えて恵みの中に留まろうとすることを選びません。気持ちがいいのが楽だからです。しかし、僕は「自分、自分」で生きてきて決してこの魂が恵まれることはありませんでした。むしろ、喉が渇いて海水を飲んで余計に喉が渇くように飢えていったのです。そうして、「もっともっと自分のほうに!!」とその欲望に際限はなかったのです。
しかし、イエス様はこのようにおっしゃいました。
マタイによる福音書 11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
旧約聖書ではもっと露骨に戒めてくれています。
イザヤ書 55:2
なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
すべてがある
本当にこの御言の通りです。僕がキリストの恵みに留まらないうちは本当に糧にもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労していたのです。しかし、キリストのところにはすべてがありました。僕を本当に満たしてくださるお方はイエス様だけです。












