生粋の悲観主義者
今日は自分の世界の捉え方の変化について書きたいと思います。僕はかなり変わったこどもで幼稚園に行き始めた頃から既にこの世界に対して悲観的な態度を取っていました。当時はもちろん言語化するすべはなかったのですが、こどもながらに漠然と「なぜ生きないといけないのか?」「こんなことに何の意味があるのか?」「この世界は苦痛に満ちている」と思っていたのだろうと思います。
そして、そういった考え方は思春期の時にピークに達します。今から思えば若さゆえの誰にでもある悩みだと思えますが、当時は非常に深刻に悩む出来事が多くありました。幼稚園の頃に漠然と抱いていた思いが、いよいよ言語化され、とにかく自分が嫌いだし消えてしまいたいと思っていました。
すべての答えは
そんな時、イエス様と出会ったことで多くの問題は解決されました。なにより、すべての答えはイエス様にあるということを知ったからです。たとえ、答えがわからなくても答えを知っておられるイエス様を知っている、それだけでいいと思えるようになりました。
それからは、僕はこの世界に対して肉においては悲観さを内包しつつも、霊においては希望に満ち溢れていると捉えるようになりました。そして、イエス様と共に生きる人生は本当に平安、喜び、楽しみで光輝いていると固く信じていました。
はかなさを知る
もちろん、今もその考えは変わりません。しかし、39歳にしてようやく様々なことを体感するようになりました。それは、年をとったことにより、この地上での命は本当に短い、あっという間に過ぎてしまうということを目の当たりにしていることもあります。
また、自身のこどもが先に天国に帰ってしまった経験を経て、この地上での命は確かになくなってしまうという現実を真剣に受け止めるようになりました。そして、この地上では自分がまだまだ体験したことのない悲しみや苦痛を通るのはごく自然なことだと思うようになりました。
ほほんとしたクリスチャン
幸いなことに魂が救われている僕は二度と悲観主義者にさせられることはありません。しかし、そういうことが起こりうるということを前提とした信仰に変わったような気がするのです。まだあまりうまく言語化できないですが、これまではのほほんとしたクリスチャンだったと思います。いわば、平安、喜び、楽しみクレクレクリスチャンだったのです。
それはそれでいいでしょう。何も間違っていません。しかし、イエス様が語られたこの言葉がずっと頭からはなれません。
「私と共に苦しみを共にしてほしい。」