1594_クリスチャンは信仰的であるべきか

信仰も恵みによって与えられる

クリスチャンは信仰的であるべきだというのは聖書的であり正しいと思います。なぜなら、もし信仰を働かせなければ、現実、事実、見えるものに流されてしまうからです。流された瞬間に小さな疑いの芽が植え付けられて、不信仰の芽が出し、瞬く間に不信仰の実が成長してしまいます。

しかし、実際は信仰的であるべき必要はないと思います。なぜなら、信仰的であるべきとう姿勢に自体に自分自身が残っているからです。何が言いたいかというと、信仰も恵みによって与えられるものだということです。

自身の霊性が顕わになる

先日はそのことを経験しました。毎日デボーションをして御言に親しみ、主と深く交わり、聖霊の導きによって歩める状態はこの世界で最も素晴らしく恵まれている状態だと思います。しかし、僕は自身の霊的な状態がそれとかけかけ離れている時もあります。

そういった状態の時に教会の集会やパブリックな祈りで自身の霊性が顕わになるのはとても怖いことです。そう感じるのは、主を霊的な深い側面で畏れずにただ肉において主を恐れており、また人の目を気にしているからです。

主の前に出るのがおっくう

普段ならそういう状態から自身の霊性を引き上げるために祈りの時間を取ることをしています。なぜなら、パブリックな環境での不信仰の現れは周りに影響を与えてしまうからです。たとえ、言葉や行動に不信仰が現れていなかったとしても聖霊を欺くことはできません。聖霊なしの祈りや奉仕はただの人間の働きであり、それであれば教会ではやらないほうがましです。

ただ、先日は霊性を引き上げるために主の前に出ることすらできなくなることがありました。僕は上記の自分の言葉によって裁かれて、本当に主の前に出るのがおっくうに感じました。

聖霊こそが人を生かす

しかし、聖霊はそのような僕を助けてくれました。祈りの中で自身でも思ってもみなかった御言が自然と与えられて信仰がやってきたのです。これは確実に僕の自発的なものではなくて聖霊による内発的なものだとわかりました。

その時に信仰的であるべきという考え方から解放されたように思います。僕が求めるべきは信仰的であることではなく、聖霊の助けであり導きであるとわかりました。僕が思う信仰的なことに何の価値があるのでしょう。僕自身は全く重要ではありせん。聖霊こそが人を生かすことができます。

ヨハネによる福音書 6:63
人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。

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