目に見えるところは非常に厳しい
つくづく客観的に見て自分は変わっているし、振れ切っているなぁと思うことがあります。特に人とのかかわりの中で自分が示す反応が人と違うなと思うことがあります。
今、我が家はかつてないほどの試練の中にあります。確かに主の守りと導きの中にいるという信仰はあります。しかし、目に見えるところは非常に厳しく、肉においてはつらいが霊においては平安というような状況にいます。
まともなクリスチャンだったら
そのような状況で、教会の人にこう聞かれることがあります。ざっくり「大丈夫?」と。
今日も10人くらいにそのようにきかれました。まともなクリスチャンだったらきっと「イエス様のおかげで、また皆様のお祈りの支えられて大丈夫です。」のようにオブラートに包んで答えるでしょう。でも僕は一風変わっているので、正直に「大丈夫ではないです。」と答えてしまいます。なぜなら、本当に大丈夫な状況ではないからです。
正直ベースが正確な情報となる
もちろん、気丈に振る舞うことはできます。しかし、それは正確な情報ではありません。大丈夫でないのに大丈夫だと思われてしまいます。
先日、職場でも上司に「大丈夫?」と聞かれることがありました。僕は正直に「大丈夫ではありません。」と答えました。それによって切実さが伝わりますし、会社も理解を示し、サポートをしてくれます。もし、「大丈夫です!」と気丈に振る舞って答えるなら、そのように大丈夫だと理解されてしまいます。
何が大丈夫で何が大丈夫ではないのか?
本当にひねくれているやつだなぁと客観的に思いますが、僕はそのほうがいいと思っています。確かに、日本語の「大丈夫」という言葉は利用できる場面が多く便利ですが、聞かれた側は戸惑うことがあります。大丈夫がどの範囲を示しているのかがわかりにくいからです。
冒頭にも書いたとおり、見えるところ、現状は決して大丈夫ではありません。しかし、霊的側面においては主にあって大丈夫です。という回答が正しくなります。質問している人が聞いている「大丈夫」が肉においてなのか?霊においてなのか?わからないため、とりあえず、大丈夫ではないと答えるのです。
「大丈夫?」と聞かれた時
だから、今後、「大丈夫?」と聞かれた時はこう聞き返すのがいいかもしれません。
「大丈夫というのは、肉においてですか?霊においてですか?あるいは、見えるところにおいてですか?見えないところにおいてですか?肉において、見えるところにおいては大丈夫ではありません。しかし、霊において、見えないところにおいては大丈夫です。」