霊的な戦いについて
昨日に引き続き、霊的な戦いについて書きます。前提として肉の目で物事を見る時、霊的な戦いを意識することは決してありません。それは戦いが起きていることすらわかっていない状態です。戦うこともできません。それはつまり、不戦敗を意味します。
しかし、霊の目で物事を見る時にはじめてそれが霊的な戦いであることを知ることができます。それはエペソ人への手紙に書かれているとおりです。
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
エペソ人への手紙 6:12
使徒行伝の時代に限定されるものではない
霊的な戦いと聞くと、クリスチャンであっても「なんだ、スピリチュアルやん!」と思われる方もいるかもしれませんが、これははっきりと聖書に書かれていることであり、奇跡やしるしや不思議が多く行われていた使徒行伝の時代に限定されるものではないと思います。
現代も霊的な戦いがあります。そして霊的な戦いと聞くと、一歩引いてしまうのではないでしょうか?少なくとも僕はそうでした。霊的な戦いは雲をつかむようなものであり、自分の領域から外れた世界のことであり、到底太刀打ちできないと思ってしまうからです。
自分の腕によって勝利を得たのでもない
しかし、それは肉の目で霊的な戦いを見た時の反応にすぎません。霊の目で霊的な戦いを見る時、それは勝てる戦いとなります。なぜなら、霊的な戦いは自分が戦うものではなく、祈りの中で主に戦って頂く者に変わるからです。それはイスラエルの戦いがまさにそうでした。
彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、
また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、
あなたのみ顔の光によるのでした。
あなたが彼らを恵まれたからです。
詩篇44:3
御言と賛美
僕は最近この霊的な戦いに関して主の訓練を受けています。僕が祈るのは自分にはどうしようもできないと主の前に降参するからです。そしてこれは主の戦いだと宣言することです。そして、主の御言を握り宣言し、主の御心がなることを願うことです。
祈りの中で教えられたことは、僕の状況にかかわらず、主はいつも讃美を受けるにふさわしいお方であることです。そして主はいつも感謝されるべきお方であり、賛美と栄光とほまれを受けるにふさわしいお方だということです。御言と主への賛美は霊的な戦いを突破する武器になるということを教えて頂いています。