1494_僕はあまりにも「肉々しくて肉たらしい」

きれいごと

僕はこのブログできれいごとを書いています。「お前にそれができるのか?」と言われそうな内容を書いています。僕が書く時にもそういった内なる声が聞こえてきます。内なる声とは自分の肉の声です。では、自分の歩みはどうでしょう?

自分の歩みを見てみても「そのきれいごと行う」には肉においてはとても難しいことがわかります。自分の自己研鑽、自己啓発、能力によっては、聖書の御言は少しも実行できません。実行するどころか主の御心すらわからなくなってしまいます。

主と共に歩むこと

もし、その声に耳を傾けてしまったら信仰を働かせることができなくなってしまいます。イエス様との関係がなくなってしまいます。せっかく自分のためにすべてを捨てて命をかけて愛してくださったイエス様の素晴らしい御わざが無駄になってしまいます。

だから、自分の肉の声や歩みは無視します。イエス様を見上げることはもちろんのこと、自由意志を働かせて自分の心の中の霊の声を聞くようにしたいと願っています。誰でも肉の思いのままで歩んで、このままでいいんだと思っていないと思います。心のどこかで本当にこのままでいいのだろうか?という声があるものです。

誰と歩みたいか?

話しを「きれいごと」に戻します。ある人は以前「それを目指すことは神になることだ」と言っていました。しかし、僕はそうは思いません。僕が願っていることは「主と共に歩ませて頂く中で、主のご性質に与らせていただく」という一点にあります。

つまり、何ができるか?ではなくて誰と歩みたいか?です。ただ、この地上において、イエス様と共に歩めること、それをなによりも強く願っています。ある一定の期間だけではなく、また礼拝している2時間の間だけではなく、時々刻々といつも主と歩みたいと願っています。

主がしてくださったこと

しかし、見えるところはどうでしょう?僕はあまりにも肉々しくて肉たらしい(造語)です。しかしそうであっても、主と共に歩むことを選択し続けたいです。なぜなら、確かに主は僕の命を贖ってくださったからです。確かに主は僕に対して「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」を実現してくださったからです。

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