0925_悔い改めるべきことがあるにも関わらず自分は問題ないと思ってしまうクリスチャン

間違った方向に行く時

昨日は主が共にいてくださっていると思っているだけで実際は1人で生きてしまっていることについて書きました。今日は自分には悔い改めるべきことがあるにも関わらず、自分は問題ないと思ってしまう状態について書きたいと思います。

誤解を恐れずに書けば、どれだけ教会で奉仕をしていても、どれだけ聖書を読んでいても、どれだけ御言を宣言していたとしても、どれだけ、毎日神の前に出ていたとしても、主の深い交わりがなければ間違った方向に進んでしまう事がありえるということです。

生きたキリストと交わり続ける

クリスチャンなら誰でも同意すると思いますが、人が変わるのは今も生きておられるイエス・キリストに霊的な領域で出会った時です。それ以降、聖書がただの書物ではなく、個人的に書かれた神様からの言だとわかるようになります。そして、エレミヤが言ったように聖書を読むことが喜びになります。

わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。
み言葉は、わたしに喜びとなり、
心の楽しみとなりました。
エレミヤ15:16

しかし、僕自身は残念ながらよく体験してしまいますが、聖書を習慣的に読むだけでは不十分だということです。自分自身が変わった時の生きたキリストに今日も出会い続けなければ、生き方はズレていってしまうのです。

祈りは霊的でなければできない

聖書は霊的なものですが、霊的な姿勢がなくても読むことはできます。霊的な姿勢で読む時に初めて霊的な食物を聖書から得ることができます。しかし、主との交わりは霊的でなければすることは決してできません。それは「神は霊であるから」です。

そして、僕の肉はこの霊的なことに激しく反抗することを知っています。理性も馬鹿らしいといいます。もし、こういった自分の肉や理性に負けてしまうのであれば、霊的な主との交わりがおろそかになっていってしまいます。そして、最終的には、自分に悔い改めるべきことが聖霊によってわからなくなってしまうということです。

日々悔い改めが必要

自分に悔い改めるべきことがあるにも関わらず、それがわからないというのはクリスチャンとして非常に危険な状態です。なぜなら、自覚しない限り、キリストの血潮によって罪を清めていただくことができないからです。もしかしたら、ある人は「すべての罪はキリストによって許されたから大丈夫」とおっしゃるかもしれません。

しかし、弟子たちが体はきれいだが、足だけはイエス様に洗っていただく必要があったように、日々生きる上で犯してしまう罪は自分の十字架を負うごとく、神の前に出て悔い改めでキリストの十字架に貼り付ける必要があります。それによって、自分が少しづつ神の似姿に近づいていくからです。

だからこそ、この悔い改めるべきことがわからないという状態は信仰生活を送る上でかなり厄介です。しかし、主との深い交わりがありさえすれば、聖霊が悔い改めるべきことを教えてくださいます。

この秋のテーマ

ここ数ヶ月は僕は比較的思想が汚染されてしまっていて、悔い改めることがあると教えられています。この秋は主との交わりをテーマに生きたい思っています。

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