聖書が教える父親観とは? | 子どもに対してどのような存在であるべきか

父と言えばこわい存在

父という立場になってからずっと子どもに対してどのように存在であるべきかについて考えています。そう考えるのは、子どもの父親観が子どもの人生に大きな影響を与えるからです。昔からこわいものと言えば諸説はありますが「地震、雷、火事、親父」と言われてきました。昔は父と言えばこわい存在だったのです。

しかし、今は必ずしもそうではありません。親と子どもが友達のように接するという関係も多くなりました。僕の同僚は「子どもに嫌われたくないから怒らない」とはっきり言っていました。

肉における父親観

僕自身の体験でいえば、僕が末っ子長男であったこともあり、父は決してこわい存在ではありませんでした。「人様に迷惑をかけるな」というシンプルな教えさえ守れば、ほとんど何も干渉してきませんでした。しかし、無干渉は決して無関心ではありませんでした。心配性で何かと気にかけてくれているのを感じていました。

つまり、僕の肉における父親観は、「決してこわくなく、無干渉でありつつも、気にかけてくれている」というものです。では、聖書が教える父親観とはどのようなものでしょうか。

聖書が教える父親観

神観に関してはこのように思わることがあります。それは、イエス様は憐れみ深く恵み深くて優しいが、天の父は義なるお方で怖く厳しいというものです。それは旧約聖書に登場する裁きの神のイメージが強いからだと思います。

しかし、果たしてそうでしょうか。ダビデは天の父を決してそのようには見ていませんでした。詩編では彼と天の父との親密な愛の関係が麗しい関係が書かれています。そこにあるのは、怖く厳しいものでしょうか。そこにあるのは、イエス様と同様、憐れみ深く恵み深くて優しいとうものです。

放蕩息子の話

新約聖書でもその父の姿が表されています。放蕩息子の話です。この父は弟が全財産を持って家を出ていくことに対して、ひどく心を痛めたでしょうが、強く制止したり、激高したりすることはありませんでした。父は弟のするようにさせたのです。また、兄に対しても同じでした。ここで登場する父は、決して子どもに干渉しすぎたり、またコントロールしようとすることはありませんでした。

聖書からわかる父がした唯一のことは「ただ待っていた」ということです。その背後にはきっと深い痛み、涙が流れるとりなしの祈りがあったことでしょう。

教会に行きたいと思えるような存在

結論として、第一に親と子は決して友達関係ではありません。神の前に親と子は同等でありつつも役割が違い責任も違うからです。第二に父は子のために祈り、自由意思を尊重するということだと思います。こうなると、教会に行かせることを強制しないのか?みたいな議論になりそうですが、子どもが親をみて教会に行きたいと思えるような存在にならないといけないと思いました。

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