先日、東莞市内に住む大学生の友人と、微信でやりとりしていた時、こんな質問を投げかけられました。ちなみに、微信(Wechat)とは日本のLINEに相当する通信アプリのことです。
良いか悪いかは分かりませんが、私は教会、学校内などで多数を相手に、このような政治的なデリケートな問題の意見を求められた時、「よくわからない」と言うことにしています。
これは日本人として無責任かもしれませんが、よく分からないのは事実ですし、何より、政治的なことでお互いの心に負の感情が沸き起こるのが、何とも馬鹿らしいと考えるからです。
一方、個人的な会話の中で、デリケートな問題が出た場合は、はっきりと言うようにしています。それが相手に対しての誠意でもあるし、万が一それで関係が悪化したとしても、そこまでの関係だったとして割り切れるからです。
私は常に用意している回答をしました。
強い反発が予期されると思ったが、彼のコメントは非常にあっけないもので、
というものでした。
それから、激しい議論が続くこともなく、彼は授業が始まるからと言ってやりとりは終わってしまいました。
中国には、
13億の人がおり、
13億の考え方がある。
ちなみに上記の問題について、中国の教会内の共通認識としては、地球上の領土はすべて神のものであるため、人間が領土を主張し合うのはそもそも間違っている。という平和主義、無抵抗主義的なものです。
根拠となる箇所は詩篇の24章1篇、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住む者は主のものである」といっても、表向きの共通認識であり、教会内にも色々な人がおり、魚釣島は中国のものだと言う人ももちろんいるし、一方、クリスチャンじゃない人でも、「魚釣島は安保条約の適用内だから中国人が何を言ってもしょうがないんだよ。」と言う人がいるのも事実です。
昨年末、魚釣島は中国のものだ(中国語:钓鱼岛是中国的)とう書籍を購入しました。
書籍をレジに持っていき、店員に手渡すと、店員が書名を見て開口一番、
「魚釣島は日本のものだよ。」と言いました。
中国には、
13億の人がおり、
13億の考え方がある。
中国人という語を使うとき、
その人が、
沿岸部出身か内陸部出身か、
農村出身か都市出身か、
高齢者か若者か、
男性か女性か、
さらには、
80年代生まれか、
90年代生まれか、
などを考慮し、ひとくくりにせず、考えることの必要性を改めて教えられた気がしました。もちろん、一人一人は唯一無二の存在であり、また、一つの民族として、おおよその傾向はあるには違いありません。それでも、「中国人はこうだ」という表現は、あまりにも乱暴で、稚拙な気がしてならなりません。
私は、歴史認識問題のことも含めて、中国人のことも、「知らなければらないほどの事すら、まだ知っていない」と思わされました。
もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。
カナンの地は今日も輝いています。