神様の前に誇ることがないため
昨日は神様がこの世で軽んじられている者や無きに等しい者をあえて選んでくださった大きな恵みについて書きました。しかし、昨日書いた御言には続きがあります。
それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
コリント人への第一の手紙1:29
つまり、神様が選んでくださったのは僕が神様の前に誇ることがないためです。もちろん、神様は限りなき愛をもって愛してくださっています。その事実は変わりません。しかし、僕はいつも神様との正しい関係に立ち続ける必要はあります。
へりくだっているように見せかけて誇っている
僕は自分がすぐに神様の前に誇ってしまう者であることを知っています。救われた当時は自分の罪深さや無力さを何よりも知っていたので神様の前に誇ることはありませんでした。しかし、以前もブログで書きましたが、信仰生活が長くなり、年を取るとともに神様の前に誇ることが出てきたのだと感じています。
1354_年を取るとともに罪深くなったなぁと思うようになった
もちろん、大胆に誇ることはしないでしょう。しかし、神様の前にさりげなく、へりくだっているように見せかけて誇っていることを僕は知っています。
正しい関係とは?
僕はこのブログでずっと神様との正しい関係に入りたいと書いてきました。僕は一見普通に信仰生活を送っているように見えているだけで、まだ正しい位置にいないと感じているのです。確かに正しい位置にいるのですが、それは精度の問題です。それはこのように表現できると思います。
誰かが点を書いてくださいと言ったとします。ある人はマジックでセンチレベルの大きな点を書きました。ある人はえんぴつでミリレベルの点を書きました。またある人はシャープペンシルでマイクロレベルの小さな点を書きました。さらに、ある人は顕微鏡でしか見れないようなナノレベルの点を書きました。
キリストのど真ん中に立てるように
自分はキリストのど真ん中に立っていると思いながら実はまだ大きな点の上でぶれており、高精度のど真ん中には立てていないというのが僕の理解です。その理由としては、冒頭にも書いたように僕はうまく自分を誇ってしまっているということがあげられると思います。他には聖さにおいても全くもって精度は足りていないでしょう。
僕の内なる声は「お前はまぁよくやっているよ。」というものです。しかし、それは聖書の御言ではありません。自分の声です。主の御言、御声に耳を傾けてキリストのど真ん中に立てるようになりたいと思っています。