1358_仕事の合間にオフィスを出て異言で祈る

福音派の教会における異言の解釈

今日はキリスト教会では比較的センシティブな話題である異言について語ろうと思います。このブログでは何度も書いているとおり、僕のバックグラウンドはプロテスタントのペンテコステ派にあり、現在は福音派の教会に通っています。

当然のことながら今通っている福音派の教会で異言を語っている人は見たことがありません。福音派においては聖書66巻を神の言として信じています。つまり、異言の存在は認めています。しかし、明確な教えとして当時異言はあったが今はない。という姿勢を取っています。主な解釈として、当時、他国のいろいろな言葉で異言が語られたのは福音宣教が全世界に広がっていくということを表す象徴的な出来事であった。という説明を聞きます。

知性によっても祈りますが、異言の祈りもする

僕はこれに関して何も思いません。それぞれがそれぞれでいいのです。僕は今行っている教会で決して異言を語りません。また教会で異言についてどうのこうのも言いません。それは郷に入れば郷に従え、かつ秩序も大切だからです。

しかし、プライベートな祈りでは異言で祈ります。もちろん、僕は知性によっても祈りますが、異言の祈りもします。異言での祈りは自分の中で霊の実を豊かに結びます。そして、知性の祈りでは味わえないイエス様との深い交わりの中に入ることができます。それは一瞬にして神様につながる霊的な直通の祈りでもあると理解しています。

異言の定義

ここでお願いがあります。どうか異言の祈りに関して明確な定義を求めないでください。ある人は「あれは言語なんかじゃない」とか「変な言葉を発しているだけ!異端!」とかいうことがきっとあるでしょう。僕自身、僕が異言と思っている祈りがはたして2000年前のペンテコステの日に話されたこの世界のどこかに存在、または過去に存在した言語かどうかなどはわからないからです。

これは異言かどうか?の客観的な判断はできていません。しかし、僕はそれでも異言の祈りをやめないです。なぜなら、確かにその祈りの中でイエス様との深い交わりの中に入れることは事実だからです。誰かが「それはお前の主観」と言っても、僕の中で起きた魂の救いと祈りの中で味わえるイエス様との個人的な交わりは他人の意見に左右されません

すぐにイエス様との交わりに入れる

僕は会社が終わってオフィスを出て駅に向かって歩いている時にいつも異言で祈ります。また時にはオフィスの外にある階段に出て一人で小さな声で祈ることがあります。マスクをしているから誰も気づかないのです。異言の祈りは直結です。すぐにイエス様との交わりに入れます。これは恵みであり神様からの豊かな賜物だと思っています。

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